阿刀田 高 猫の事件 目 次 影酒場  影酒場  触媒人間  貧乏ゆすり  天和の代償  社長室のゴルフ  マイ・バレンタイン・デー  凧  破られた約束  地震恐怖症  遠い夜  真夜中のインベーダ  不運なシャツ ネズミ酒  ネズミ酒  一年生のために  あやしい鏡  未完成交情曲  眼美人  新築祝い  幽霊をつかまえろ  夏の夜ばなし  美しいお妃様の冒険  風邪とサラリーマン  善 意  とてもいい気持ち 海の眼  海の眼  目黒のサンマ  形 見  家族の風景  レンズの中の男  無料コーヒー  ころし文句  蜜 柑  こわい話  鬼はうち  蚕 食  猫の事件 影酒場  影酒場  銀色の月が冷たい冬空に懸《かか》っていた。白く凍った路面に影法師が二つ、夜とは思えないほどくっきりと映っている。 「たしかこのへんのはずなんだがなあ」  トミさんが体を揺らしながら首を傾《かし》げた。 「安い店があるから、もう一軒だけ」と無理に誘われてついて来たのだが、いっこうにそれらしい店が見当たらない。 「もうやめたんじゃないのか」 「通り過ぎたかなあ」  僕たちは相当に酔っていた。夜半も近いし明日の仕事もある。もういい加減、家に帰ったほうがよさそうだ。 「帰ろう、帰ろう」  コートの襟を立て直しタクシー乗り場に向かいかけたとき、急に左手のビルのドアがあいて、女の顔が覗《のぞ》いた。視線がパチンと会った。  ——いい女だ——  すぐにそう思った。女は薄く笑っている。若い娘ではない。三十四、五歳……かな。ひっつめの髪を無造作に束ね、眼がとても大きい。 「今晩は」  トミさんがいち早く声を掛ける。 「今晩は。寒いわね」 「なにしに出て来たんだ?」 「お客さんがいないから。だれか歩いてないかと思って……」 「うん。じゃあ……ほんの一ぱいだけ」 「どうぞ」  僕たちは女のあとに続いた。  店は地下にあるらしい。穴倉に降りて行くような感じだった。  階段を降りながら、 「捜してた店なのか?」  と小声で聞くと、トミさんが首を振る。そうだろう。話に聞いた店とは大分様子が違っている。 「大丈夫かい?」  僕がそう尋ねたのは、二人ともオケラ同然の状態だったから。ポケットにはせいぜい帰りの車代くらいしかない。だからこそ馴染みの店を捜していたんだ。 「かまわん、かまわん」  トミさんはあまり酒癖のいいほうではない。  ——高い店だったら、どうしよう——  よくない予感が胸をよぎる。  思い返してみると、さっき女がドアを開けるその直前まで僕たちは歩道の左手にこんな酒場があるとは考えなかった。左手の家並みは黒く静まりかえり、店のありかを示す門灯さえついていなかった。階段は薄暗いし、ここはガレージの地下じゃあるまいか。 「さ、どうぞ」  女が重い木戸を押す。  十畳ほどの小さな店。赤と黒の色調。木のテーブルが三つ。それを囲んでいくつかの椅子が置いてある。芝居のセットみたいな印象だ。ほかに客はいない。 「うん、こりゃ、いい店だ」  トミさんは早くもご機嫌になっている。女が美人だからにきまっている。まあ、店の造りもわるくはないけれど……。 「なにがよろしいかしら」 「あなたがママさん?」 「そうよ」 「水割りにするかな」 「はい」  女は暖簾の奥に引っ込んだ。奥のほうがキッチンになっているらしい。 「安くないぞ」 「なに、ただの居酒屋だ」  と、トミさんは木の椅子を叩く。  違う、違う。トミさんは頭が古いからフックラとしたソファが置いてあれば上等な店だと思っている。僕はデパートの家具売り場で三年もアルバイトをしていたから知っているんだ。この店の家具は、一見粗末に見えるけれど、みんな趣向を凝《こ》らしてある。統一がとれている。ママの器量だってとても安物の感じじゃない。 「お待ちどおさま」  案の定、氷と一緒に運ばれて来たボトルはスコッチ・ウィスキー。こんな上等な酒は、いつ飲んだのが最後だったかなあ。 「いい店ですね」 「ありがとう」  ママの頬に自信の笑いが浮かぶ。トミさんは、いくぶん釈然としない顔つきで水割りをグイと喉《のど》に流し込んだ。 「なんだか地下の倉庫みたいな感じですね」 「当たり。そうなのよ。こんな感じがおもしろいと思って」 「でも、よくできてますよ」  採光は暗い。天井から長いコードを垂らして、その先端に黒い円錐形の電気傘。傘の内側はまっ赤に塗ってあり、淡い光芒がテーブルの上に落ちている。 「この傘、集魚灯の傘なんですのよ」  ママが僕の視線の行方を追って説明してくれた。店の隅には網に包まれたガラスのブイなども置いてあって、海のイメージをモチーフとした室内装飾らしい。  ——それにしても、このママは何者かな——  年齢はさっき門口で想像したよりもう一つ二つ上かもしれない。チャコール・グレイのドレスに白い肌。首飾りは真珠。  ——海のイメージなら、当然こうでなくっちゃあ——  そう思って、なおも注意深く観察してみたら指輪もイヤリングもみんな大粒の真珠だった。 「カラオケ、ないの?」  トミさんがなさけないことを叫ぶ。わかってないんだなあ。そういう思想の店じゃないんだ。隅から隅まで神経が行き届いている。灰皿一つだってママが自分の趣味で選んだものにちがいない。 「ごめんなさい。静かに飲んでいただこうと思って……」 「うん。なかなかいい店だよ。ちょいちょい寄せてもらうかな」  トミさんは不躾《ぶしつけ》な眼差しでママを見つめた。 「ぜひいらして」  ママはトミさんのために水割りを作りながら顔と膝とを僕のほうに向け、 「お店は素人なのよ。ただ室内装飾に興味があるものだから……。いろいろと工夫をして、こんな店を作りたかったの」 「うん、うん」 「お気づきになった?」 「なにを?」  こう問いかけたとき、ドアが開いて四、五人の客が入って来た。 「いらっしゃいませ」  ママが立ち上った。  店の中が急に賑かになった。トミさんは胡散《うさん》くさそうに新しい客の群を眺めている。 「大丈夫かい、勘定」 「俺にまかせておけよ」 「いくらも持ってないんだろ。僕はせいぜい二千円だ」 「銭なんかどうにでもなるさ」  トミさんはグラスを空にして三ばい目の水割りを自分で勝手に作っている。  僕は店の中をもう一度見まわした。さっきママが「お気づきになった?」と言っていたけど……あれはなんのことだろう。店のどこかにおもしろい仕掛けがあるように聞こえたが……。  時計は古風な仕掛け時計。灰色の壁にぼんやりと客たちの影が映っている。頬杖をついている奴、グラスを傾けている奴……。  ——あれっ——  と思ったときにママが戻って来た。 「お気づきになった?」  さっきと同じ台詞を言う。 「驚いたなあ」  これはおもしろいデコレーションだ。地下の倉庫を改造した酒場。陰の多い採光。灰色の壁には談笑する酔客たちの影がぼんやりと映っている……。だが、それは本当の影ではない。頬杖をついた男はいないし、グラスを傾けている客は、あんなところに影を作らない。みんな壁にかいてある……。 「ちょっといいでしょ」 「神秘的だなあ。ママのアイデア?」 「まあ、そう。これがこの店の特徴なの」 「ここはママ独りでやっているの?」 「そうよ」 「大丈夫かな」 「平気よ。この影が守ってくれてるから」  むこうの客が呼ぶのでママがまた席を立った。 「さて、帰るか」  ママが僕にばかり話しかけるのでトミさんは少しおもしろくないらしかった。 「ああ、そうしよう」 「ママ、会計」 「はい、すみません」  勘定書を見て、ドキン。予想通り安くはない。  トミさんはさして驚いた様子もなく、 「今夜は持ち合わせがないんだ」 「あら、そう。では、次にいらしたときにどうぞ」  鷹揚《おうよう》なものだ。こんなことで商売ができるのだろうか。 「名刺でもおいていこうか」  トミさんはポケットから名刺入れを取って一枚抜き出す。 「山本さんとおっしゃるの?」 「うん」  と頷く。  ——それはないよ、トミさん——  差し出したのはトミさんの名刺ではない。魂胆は見えている。だれかの名刺を出して、飲み逃げするつもりらしい。 「また来るよ。ご馳走さん」  眼配《めくば》せをして僕の腕を取る。 「ありがとうございます」  ママは事情も知らずにとても愛想がいい。 「名刺一枚でよく信用できるな。飲み逃げなんかされないのか」  トミさんが平気な顔で尋ねた。 「大丈夫よ。きっとまた来てくださるわ。その自信がなきゃ、こんなお店やっていられないわ。じゃあ、おやすみなさい」  ドアがしまった。 「ふん。美人なもんだから、自信を持ちやがって」  トミさんが悪態をつく。 「しかし……悪いなあ。だれの名刺なんだ?」 「だれでもかまわん。取りっぱぐれりゃいいんだ。気取りやがって……。たまには痛い目にあったほうがいい」  ちぐはぐな気持ちのまま並んで歩いた。  銀色の月は夜更けてさらに輝きを増したらしい。アスファルトの道をしらじらと照らし出している。 「あ、いかん」  突然、トミさんが声をあげた。 「あの婆ァ、飲み代のかたを取りやがった」 「腕時計か?」 「そんなんじゃない」  トミさんが顎で路面を指した。  月影の明るい道に僕一人の影法師がくっきりと伸び、トミさんの影はなかった。  トミさんの影は、あの店の壁に残っているらしい。  触媒人間 「タケノさん、社長がお呼びです」  オフィスの事務員にそう告げられたとき、タケノ氏はいやな予感を覚えた。  ——なんだろう。社長が私に用だなんて。いい話ではあるまい——  会社の業績はここ三年ばかり急速に悪化している。日本経済全体が不況とはいえ、わが社の場合はとくにひどい。人員整理も囁かれている。  タケノ氏の身分は臨時職員だし、いくら社長と同窓の関係があっても、こんなときにはまずまっ先に狙われるだろう。  ——やれ、やれ——  もし首になったらこの不景気に六十近い年齢で、どこに働き口があるものか。月給はけっして高くはないが、なんとか小遣い程度にはなる。  ——解雇を言い渡されたら、どう言って泣きつこうか——  そのことばかりを思案して社長室までの廊下を歩いた。  ドアをノックする。 「失礼します。タケノです」  秘書がドアを開けた。  従業員百数十人の小企業だが、社長室の雰囲気はそれなりに重々しい。  社長は社員の考課表に目を配っているところだった。こと人事に関しては社長が細かいところまでチェックするのが、よくもわるくもこの会社の特徴だ。 「やあ元気かね」 「まあ、元気にやっております」 「お子さんたちは?」 「長男が大学を出てN産業へ就職しました」 「それはよかった。娘さんは?」 「半年ほど前に嫁にやりました。やたら実家に帰って来ますけれど……」 「かえっていいじゃないか、さびしくなくて。もうみなさん大きくなったんだな」  家族のことを尋ねるのは、首斬り前のご挨拶かもしれない。「みなさんがすっかり一人前になったんだから、あなたもボツボツ……」と話が進むのではあるまいか。  年甲斐もなく膝が震えた。  だが、社長は書類の束を秘書に返しながらデスクの上で掌を組み、 「ハラ君はどうしているかね」  と、思いがけないことを尋ねた。 「ハラさんですか」 「うん」  ハラ氏は、古くからの友人だ。軍隊でも一緒だった。若い時代には誘いあってよく酒などを飲んだものだ。  そもそもこの会社にタケノ氏を紹介してくれたのもハラ氏だった。  ハラ氏は——お世話になった友人をわるく言うつもりはないのだが——一見して昼《ひる》行灯《あんどん》みたいな、頼りないところのある男だ。人柄はいいのだが、仕事のできるタイプではない。社業に情熱を燃やすようなタイプではなかっただろう。  定刻に出社し、決められただけの仕事をはなはだ要領わるくやって定刻には帰るという平凡なサラリーマンだったらしい。|※《うだつ》のあがらない男だったろうと、それはタケノ氏にも想像がつく。  ハラ氏自身もそのことは熟知していただろう。  定年を迎え、あっさりと悠々自適の生活に入ろうと考えたのも無理からぬことだ。  それが三年前。まだあの頃は会社も好況のまっ最中で、むしろ人手不足の状態だった。 「オレはもう疲れたよ。家でのんびり暮すつもりだ」  ハラ氏のそんな話を聞いてタケノ氏が頼み込んだ。 「なんとか君のあとがまに私を推薦してくれないかな。社長とオレとは学校も同じなんだし」  ハラ氏がどんな仕事をしていたか知らないが、彼くらいの働きなら充分やれるだろう。 「うん。しかし、私は定年で罷《や》めるんだし、せいぜい臨時雇いだぞ」 「もちろんわかっているさ」  あまり期待はしていなかったが、話はとんとん拍子に進んで結局タケノ氏は臨時職員として雇用されることとなった。前に勤めていた会社は倒産し、なにをやってもうまくいかない矢先だったから助かった。  タケノ氏は、これまでの人生を顧みてあまりよい職場に恵まれたことがない。仕事は一生懸命やるし、さほど無能なサラリーマンではないと自分では思っているけれど、個人の力ではどうしようもない。運がないということなのだろう。  その点、ハラ氏は無能のくせに……と思いたくもなる。彼の行くところは、いつも日が当たっていた。 「相変らず家でブラブラしているのかな、ハラ君は?」  どうやら社長の用件は、タケノ氏に退職を勧めることではなかったらしい。 「そう思いますが……」 「もう一度、社に戻って働く気はないのかなあ」 「はあ?」  意外だった。  職場のあちこちでは、むしろ人員整理が囁かれている。しかも、よりによって、さして有能とは思えないハラ氏を呼び戻すとは……。  そんなタケノ氏の思惑を社長は汲み取ったらしく、手を振ってから、 「君は触媒というものを知っているかね」  と、奇妙なことを尋ねた。 「ショクバイ……でしょうか」 「うん。昔、化学で習っただろう。たとえば酸素を作るときの二酸化マンガン。自分自身はなんの変化もしないが、酸素を作るときにこれがあると、とたんに反応が活発になる」  ああ、それなら知っている。化学は得意な学科だった。 「はい、覚えておりますが……」 「先日、アメリカの経営書を読んでいたら大勢の人間の中にも触媒人間というのがいるそうだ。その人自体はたいした仕事もしないし、組織に役立っているとはとても見えない。しかし、その人がいると、とにかく企業は隆盛に向かう。万事うまくいく」 「はあ?」 「そこで私も考えてみたんだが、あのハラ君、彼はどうも触媒人間だったらしい。ひところ彼は秘書課にいたので、なにかと接する機会も多かった。一見したところはさほど敏腕には見えなかったが、とにかく彼がいるだけでトラブルは解消し、なんとなく調子が上向きになる。いなくなるととたんにその課は厄介事に見舞われる。二度ほどゴルフ場で一緒にまわったことがあったが、ハラ君がそばにいるだけで不思議と好スコアが出た。商談でニューヨークへも一緒に行ったことがあるが、あのときも不思議と調子がよかった。彼が退職したとたん社業がおかしくなったのは、はっきりしている。人事課に命じて克明に過去を調査させてみたら、やはり私の考えた通り、社業が飛躍的に伸びたのはハラ君が入社してからのこと。以来彼の所属したセクションが赤字を出したり、トラブルを起こしたりしたことは一度もない」 「はあ?」  タケノ氏は唖然として社長の顔を見つめていた。  社長が占いやジンクスのたぐいを信じているらしいことは聞いていたが、こんなことまで信じているとは……。  待てよ、たしかにこの世の中には、そんな人間がいるのかもしれないぞ。 「人は迷信だと言って笑うかもしれないが、世間には人間の知恵では計り知れないことがたくさんあるものだ。アメリカの経営学者も半信半疑ながら大がかりの調査をしてみたところ、やはり�触媒人間は存在する�という結論に達したらしい。たとえ無駄になってもかまわない。私としては、どんな閑職でもいいからとにかくハラ君を呼び戻して成行きを眺めてみたい。そんなことで万一社業が回復するものなら、結構なことじゃないか」 「わかりました」  社長がそう考えるなら、タケノ氏があえてあらがう理由はどこにもなかった。  ハラ氏が復帰したからと言って、彼自身が仕事を奪われるわけではあるまい。 「まあ、奇妙な話だから、今言ったことはだれにも秘密にしておくように」 「はい」 「じゃあ、ハラ君に私の意向を伝えてほしい。なつかしくなった。ぜひとももう一度社に戻ってほしい、って……。いいね」 「承知しました」  タケノ氏は社長室を出た。  ——フーン、触媒人間か——  そんなヘンテコな能力を帯びた人間がこの世の中にはいるものなのか。  ふと遠い昔の実験室の風景が心に浮かんだ。化学の教師の顔が浮かんだ。まるい眼鏡をかけて……メダカというあだ名だったっけ。  触媒のことを習ったのは高校二年の二学期だったろう。試験では満点を取ったな。  たしかに触媒人間というのは存在しているのかもしれない……。  メダカの声が脳裏に響いた。 「触媒には正触媒と負触媒とがあって、普通の触媒、つまり正触媒は反応を活発にするのに役立つ。一方、負触媒というのもあって、これは逆に反応をにぶらせる……」  ウーン。  当然、触媒人間の中には、負触媒のほうを受け持つ人もいるのではあるまいか。  タケノ氏はデスクに戻ってぼんやりと思いめぐらした。  ——私が勤務するようになってこのかた、この会社はろくなことがない。以前に勤めていた会社もそうだった——  記憶の及ぶ限り思い出してみると、タケノ氏が配属された職場はいつもトラブルが起きた。ゴルフひとつ取っても、彼と一緒にまわると、みんな惨憺《さんたん》たるスコアになるのだった……。  貧乏ゆすり 「一本だけいいかしら?」  格子戸が開いて女が首をのぞかせたのは、もう夜の十一時が近い頃だった。  昼のうちは日射しが暑いが、夜がふけるとめっきり涼しくなる。酒のうまい季節に変り始めていた。 「もうすぐ閉めるけどね。ま、いいよ、一本だけなら」  居酒屋の親父は、テレビ・ドラマをはすかいに見ながら面倒くさそうに言う。  カウンターに五つの椅子を並べただけの酒場。 「ごめんなさい」  女はタムラ氏の隣の椅子にすわった。 「なんにします?」 「一級酒を一本。ぬる燗《かん》にして」  三十代のなかばくらいだろうか。シャキシャキとして、いかにも男まさりの様子だが、目鼻立ちは整っている。かすれ声も色っぽい。タムラ氏は、もうボツボツ腰をあげようとしていたのだが、女の様子に誘われて、 「私にももう一本だけ」  と追加の注文をした。  テレビの画面は時代劇。物語はわからないが、気弱な亭主は女房の浮気を知りながら、それをとがめる勇気がない。女房が浮気をしそうだとわかると、自分からそわそわと銭湯へ行ってしまう。このごろテレビでよくみる俳優が、そんな悲しい亭主をほどよく演じている。 「情けないねえ、この男。バーンと一ぱつビンタをくれてやればいいんだよ」  酒場の親父がもどかしそうに呟く。女もタムラ氏も答えない。黙って酒を汲んでいる。タムラ氏は盃の底をのぞきながら、  ——サトコのやつ、どうしているかな——  と思った。  二年ほど同棲して別れた女。金遣いがだらしなくって、それでつい殴ってしまった。翌朝タムラ氏が仕事を終えて家に帰ったときにはもういなかった。  あれから三年、ずっと一人暮らしだ。  上等な女ではなかった。別れてせいせいしたところもあったが、なにかの折にふいと思い出す。|※《うだつ》のあがらない者同士が慰めあうようにして生きていた。  ——無事でやっていれば、いいんだが——  テレビ・ドラマはいつのまにか終ったらしい。アナウンサーが十一時を告げている。 「旅館はどこにある?」  タムラ氏の仕事は旅のセールスマン。この町に来たのは初めてのこと。なーに、男一人が転がり込む宿くらい、どこの土地へ行ってもある。予約もせず行きあたりばったりに訪ねるのがタムラ氏の流儀だった。 「駅の近くに行けばありますよ」  親父はもう店を片づけ始めている。 「じゃあ、勘定にしてくれ」 「私もお勘定をしてくださいな」  女は一本のお銚子をカラにしただけで立ちあがる。ガラス戸をあけて人気のない歩道に出た。夜更けてまた風が冷たくなった。 「お客さん、もう少し飲みません?」  外に出たところで、女が背後からタムラ氏に声をかけた。 「しかし、飲むとこあるかな?」  街はもうすでに灯をなくして暗く静まりかえっている。 「宿を捜しているんでしょ?」 「そう」 「じゃあ、きたないとこだけど、私んちにいらっしゃいません? お酒もあるし。朝ごはんくらいサービスしてあげるわ」  タムラ氏は闇の中であらためて女の様子をうかがった。  ——なにをする女だろうか——  女は肩で笑った。 「たまにはいいんじゃないかしら?」 「こわい亭主が出て来たりして」 「馬鹿ね、そんなんじゃないわ。だれかと飲みたいの、今夜は」  タムラ氏は女のあとに続いて夜の道を踏んだ。女は背を向けたまま語りかける。 「うちの旦那も気弱な男でさ」 「うん?」 「心で思っていても、口じゃなんにも言えないの。もちろん殴ったりなんか金輪際できっこないのよ。ただもうヒクヒク、ヒクヒク貧乏ゆすりばっかりしていて……」 「ああ、そう」 「私、浮気したのよ、わざと。�この人、女房が浮気したらいくらなんでも怒るだろう�って、それを試してみたかったんだけどねえ……」 「どうだった?」 「やっぱり貧乏ゆすりだけよ」  女の家は古いマンションの三階。お新香を肴《さかな》に一時過ぎまで飲んだ。 「ご主人はどうしたんだ?」  部屋には男が住んでいる気配はない。女は曖昧に笑って答えない。 「もう寝ましょうか」  どちらからともなく誘いあい、体が重なった。  カタ、カタ、カタ…… 「あの人、また押入れの中で貧乏ゆすりをしているわ」  驚いてタムラ氏がふすまを開いた。  カタ、カタ、カタ……。  位牌が一つ。愛の響きに誘われて、さながらやきもちでもやくように揺れ動く……。  天和の代償 「課長。ご面会です」  受付の女子社員が名刺を持って来たが、アズマ氏はその名前に覚えがなかった。名刺の肩書には�未来調査コンサルタント�と記してある。市場調査でも請け負う業者なのだろうか? 「とりあえず応接間へご案内してくれ」  アズマ氏が上着を着て応接間へ行くと、スマートな背広に身を包んだ若い男が立っていた。 「アズマです。どういうご用件でしょうか?」 「昨日はどうも。いかがですか、今朝のご気分は」  アズマ氏がいぶかしそうな顔をすると、男はなれなれしい口調で続けた。 「いやですよ、課長さん。お忘れになったんですか。昨夜スナックでお会いしたばかりじゃありませんか」  こういわれてアズマ氏はもう一度男の顔を見つめた。  ——あれは、夢ではなかったのか——  男は楽しそうに笑っている。 「夢だと思っていらしたんでしょう」 「ええ……まあ、いや……」  アズマ氏の心に昨夜の記憶がよみがえってきた。  アズマ氏は四十五歳。二流どころの商事会社の国内市場課長である。趣味は麻雀。それ以外にはない。昨夜も客の相手をして十一時過ぎまで卓を囲んだ。それから車を待つあいだ雀荘の地下にあるスナックに寄ってブランデーを何杯か飲んだ。そのうちにウトウト眠ったつもりでいたが、どうもそうではなかったらしい。いま目の前にいる男が、どこからともなく現われ、話しかけたように思う。 「先ほど二階で麻雀を見せていただきましたが、見事でしたね」 「いや、それはどうも……」 「九連宝灯を作りましたね」 「ええ。でも二度目なんですよ、あの役は」 「コンピューターの調査によれば、約七万三千回打って一回できる確率です」 「ほう。そうですか。天和はどのくらいの率なんですかねえ」  アズマ氏は二十年以上も麻雀を打ち続けているので、大ていの役満は一度や二度経験したことがあったが、どうしたわけか天和にだけは恵まれなかった。�あんなもの、実力には関係のない役じゃないか�そう思ってはみても、やはり天和の魅力は格別だった。どんなルール・ブックにも、まず第一に記されているこの輝かしい役満を体験したことがないのは、とりもなおさずまだ麻雀打ちとして半人前のような気がしてならない。しかも、自分で作ろうと思って作れる役ではないだけに一層はがゆいのだ。 「天和ですか? あれは約五万回に一回です」 「まだ、やったことがないんですよ、私は」 「お望みなら私が作らせてあげましょうか?」 「えっ?」  昨夜の記憶はどうもこのへんからあまりはっきりしないのだ。ブランデーに酔ったのだろうか? 夢だとばかり思っていたのに……。  応接間のソファーに腰をおろした男は、アズマ氏の心を知っているかのように話を続けた。 「それで……課長さんがぜひ天和を作ってみたいとおっしゃったので、私が請《う》け負《お》ったんじゃありませんか」 「天和を請け負う? それはどういうことかね?」  どこか胡散くさい男だ。なにか企みがあるのかもしれない。アズマ氏は少し気色ばんで男の顔をにらんだ。 「それで早速実験してみましたところ、この通り天和ができまして……これが、そのあがった形です」  男は黒いカバンの中から書類を引き出してアズマ氏の目の前に広げた。紙の上方には、コンピューターが打ち出したような記号が並び、その下に十四個の麻雀牌の図が手書きで添えてある。  アズマ氏はその紙をチラッと見て迷惑そうにいった。 「あなたのおっしゃることはサッパリわからない。いまは仕事がいそがしいので、あとにしてくれませんか」 「いえ、それは困ります。課長さんだって、私にお願いになったのを覚えておられるでしょう」  そういわれてみると、夢とも現実ともつかない、おぼろな意識の中でそんなことを願ったような気がしないでもない。だが、ここでつけこまれては、後で碌なことはなさそうだ。アズマ氏は椅子から腰を浮かせて、 「とにかく仕事がいそがしいので」 「しかし、こちらも手間ひまをかけて実験をしたのですから」 「どんな実験を?」 「私どものコンピューターと、アズマ課長さんとを同調させまして」 「同調?」 「はい。姓名判断、八卦、星占いなど、和洋の運命学のエッセンスを総動員して、課長さんの勝負運を数式化し、これをコンピューターに組み入れ……ま、やさしく申しあげればコンピューターを細工してアズマ課長に成り変ってもらいます。そして、そのコンピューターに何百回、何千回、何万回と麻雀を打ってもらうのです。課長さんは眠っていらしても、コンピューターのアズマ課長は休みなく麻雀を打ち続け……」 「そんな馬鹿な」 「いえ、本当です。しかし、ご自身でおっしゃる通り課長さんは天和には縁の薄いほうですね。四万六千九百二十三回目にようやく天和に当たりました。これは一日平均半荘二回の麻雀をやり……これは課長さんの平均的なペースですが、その半荘二回の間に荘家に七回なるといたしますと、ざっと六千七百三日、つまり今日から数えて十八年ほど後になります」 「キミ、ちょっと……」  アズマ氏がさえぎろうとしたが、男はドンドン続けた。 「十八年といってもコンピューターにすれば、ほんの五分足らずのことです。それで……たった一時間ほど前に、この通りの手牌でコンピューターのアズマ課長さんが天和をあがったわけで、つまり、アズマ課長さんが天和であがったのと同じことなのです。どうもおめでとうございます」  男は深々と頭をさげた。  アズマ氏は男の顔をつくづくとながめた。  ——こいつ、狂人かもしれない——  アズマ氏は立ち上った。 「とにかく私には関係のないことです。帰ってください」 「しかし、調査費だけでもいただきませんと……」  と言う。  ——なるほど。それが目的なのか——  ゆすりにしては、どこか間が抜けているが、それ以外には考えられなかった。  アズマ氏は男をにらみつけるようにしてキッパリといった。 「たとえコンピューターの私が天和を作ったところで、そんなことは私となんのかかわりのないことです」 「しかし、課長さんがご依頼になったのは確かです。ご記憶があるでしょう」 「昨夜、もし私が何かあなたに話したとすれば、私がこの手で天和をあがってみたいということ、それだけです。コンピューターなんか……さ、帰ってください」 「そうですか」  男は案外すなおに席を立った。そして二、三歩ドアのほうに向かったが、急に振り向いて、 「では、そういたします。課長さんのご希望にそえるようにいたします」  こういってあたふたとドアの外に消えた。 「陽気がおかしいんで頭に来たんだろう。それにしても、あれは夢じゃなかったのか」  アズマ氏は机の上に目を落とし、紙の上に書かれた麻雀牌の上り図をながめていたが、ポイッと紙くず箱に投げ入れて応接間を出た。  その日の夜もアズマ氏は親しい仲間といっしょに雀荘で卓を囲んだ。  連荘をしていた起家《チーチヤ》が流れ、南家のアズマ氏が親になった。 「さあ、稼がせてもらおうかな」  サイコロを振ろうとした時、アズマ氏は雀荘の片すみに今朝の男が立っているのに気がついて、顔を曇らせた。男はアズマ氏に向かって意味ありげな目くばせをしている。  ——あの野郎、またこんなところに来てるのか。いやな奴だ——  アズマ氏は男を無視してサイコロを振った。サイコロの目が七を示し、アズマ氏の手が対面の山に伸びた。一瞬、アズマ氏は暗いめまいのような感じを覚え一、二度手のこぶしで頭を叩いたが、さして気にすることもなく配牌を見渡した。 「はて……?」  アズマ氏の手が止まった。 「どうした?」 「いや、ちょっと……」  アズマ氏の目がまるで信じられないものを見るようにカッと見開いた。  ——あの形だ!  なんという偶然だろう。目の前には今朝あの男が見せたのと同じ形に牌が並んでいる。 「どうしたんです、アズマさん」  三人の声にうながされて、アズマ氏は牌を倒した。 「天和だ」 「えっ、本当に?」 「これは……すごい」  だが、そのとき対面の男が一きわ甲高い声をあげた。 「アズマさん、どうしたんです!」 「どうしたって……天和ですよ」 「いや、天和はともかく……」 「あ、これは……本当にどうしたんです?」  三人の男たちの目が卓上の牌を離れて、自分の顔を見つめているのに気づいた。  アズマ氏は自分の手の甲を見た。それから頬を撫で、あわてて部屋のすみにある鏡に走った。 「…………」  あの男が近づいてきた。 「ご満足でしょうか。天和までにはどうしても十八年必要だったんです」  鏡の中には、しわの深い、白髪の男が立っていた。  社長室のゴルフ 「社長、ご面会のかたが見えていらっしゃいますが」  インターフォンが秘書嬢の声を伝えた。  社長は机の上に足を投げ出し、明日おこなわれるゴルフ・コンペのことを考えている最中だった。 「だれかね」 「人事課長のご紹介で、画商のかたです。お目にかけたいものをお持ちになったとか」  人事課長は口うるさい男だ。仕事熱心で敏腕なやつだが、ちょっと煙ったい。社長や重役にも平気で食ってかかる。  なんだろう? 「通してくれたまえ」  とりあえず会ってみることにした。 「お邪魔いたします」  入って来た男は黒の背広に、まっ赤なネクタイ。髪を油でなでつけ唇の色が奇妙に赤い。名刺に記された名前にはなんの記憶もなかった。 「どんなご用件ですか」 「はい。絵をぜひ見ていただこうと思いまして」 「絵はいらんなあ。趣味がないんだ」 「存じております。社長さんのご趣味はゴルフでございましょう。これはゴルフ場の絵でして……変った油絵ですからちょっとご覧になってくださいませ」  ゴルフ場の絵と言われて興味が動いた。 「じゃあ、見せてもらおうか」  男が包みをほどくと、中から三十号ほどの油絵が現われた。  なんの変哲もないゴルフ場の絵……。一番ホールのフェアウェイが描いてある。 「なんだね、これは?」  社長はあっけにとられて尋ねた。 「ちょっとこちらにいらして、絵の真正面に立ってくださいませ」  社長が首を傾けながら言われるままに絵の前に立ってみると……一瞬、自分の体が小さくなるような感覚を覚えた。  いや、そうではない。絵のほうが大きくなったのだ。  そればかりか、それまではただの額縁の中の絵にすぎないように見えたものが、急に奥行を持ち、たしかにそこにゴルフ場が実在しているように見えるではないか。芝草の匂いもする。ボールを打つ音も聞こえる。 「ほう?」 「どうぞ。そのまま絵の中に飛び込んでみてください」  社長室の床から絵の中に足を踏み入れると、もうそこはフェアウェイのまっただ中だった。 「いかがですか」 「これはすばらしい。絵から出るにはどうしたらいいのかね」  絵の中の社長が半信半疑の面ざしで答えた。 「ただ出ていらしてください」 「うん」  額縁をまたいで社長が戻って来た。 「ご感想はいかがですか」 「すばらしい。これがあれば社長室でいつでもゴルフが楽しめる」 「はい。ずっと奥のほうまでゴルフ場は続いておりますから」 「いかほどかね」 「しばらくお使いになってみてください。その上でご相談に参上いたします」 「君、だれにも内緒にしておいてくれたまえよ。特に人事課長には……いいね」  社長が寸暇《すんか》を盗んでゴルフに興じていると知れたら、あの口うるさい男がなんと言うかわからない。 「かしこまりました」  社長は早速ゴルフ・クラブを握って絵の中へ入って行った。  秘書嬢は言う。 「はい。画商のかたが絵をかかえて社長室から出ていらっしゃいました。お見えになったときと同じように……。わたくし、絵が売れなかったんだわ、と思いましたけど」  画商の人相は�平凡な中年男�という以外なにも特徴がなかったらしい。  社長はどうしたのか。  不思議なことに、このとき以来社長を見たものはだれもいない。三日たっても、一週間たっても、一ヵ月たっても……。  ゴルフに夢中になって社業に身を入れない社長には、みんなが危惧を抱いている矢先だった。  ともあれ社長なしではすまされない。いずれこの会社では新社長が選ばれるだろう。  画商の行方もわからない。  マイ・バレンタイン・デー  風が冷たい。歩道の水たまりが凍りつき、商店街のネオンを映して赤く輝く。  通行人はみんな首をすくめ、一刻も早く暖かい家に帰ろうとしてせわしなく足を運ぶ。 「寒いねえ」 「寒いわねえ」  知った顔に出あっても、同じ言葉を言いあって、いそいそと遠ざかる。路上のごみが風に乗ってクルクルと輪を作った。  今日子も急ぎ足だった。病気の母に頼まれて駅むこうの病院まで薬を取りに行った帰り道。お使いはいやではないけれど夜道は少しこわい。商店街を過ぎれば、あと家までは暗い坂道になる。来るときもこわかったけれど、帰るときはもっとこわい。だれか同じ方向へ行く人がいないかしら。だれかが来るまで待ってみようかしら。 「いかがですか、チョコレート。いかがですかチョコレート」  縮んだ声が響く。  商店街の角はお馴染のお菓子屋。いつも菓子パンを買う店。好物のスナックを買う店。きょうはその店の前に店員がひとり寒そうに立って通行人に呼びかけている。足を止める客は少ない。 「あしたはバレンタイン・デーですよお」  少しやけになって叫んでいる。  ——ああ、そうか、あすはバレンタイン・デーなのか——  今日子は赤いえり巻きの中で首を傾げる。  つい先日までバレンタイン・デーがどういう日か知らなかった。それを教えてくれたのは、もの知り博士の夏枝だった。  学校の昼休み、屋内運動場の日だまりに腰かけながら、 「もうすぐバレンタインね」  と言って今日子の顔をのぞきこんだ。 「ええ……」  うなずいてはみたものの、バレンタインがなにかわからない。 「知らないの?」  くやしかったけど、�聞くはいっときの恥、聞かぬは一生の恥�そんなことわざもあるではないか。 「なんなの?」 「二月十四日よ」 「うん?」 「この日にはネ、女の子のほうから好きな男の子にチョコレートをプレゼントしていいの」 「それで」 「それで? それでおしまいよ」 「なーんだ。つまんないじゃない」 「つまるわよ。だって、女の子のほうで自分の好きな男の子を指名できるんだもん」 「ああ、そうか」  あのときはすぐにはバレンタイン・デーのすばらしさがわからなかったけれど、時間がたつにつれ、  ——なるほど。それもわるくないな——  と思うようになった。  いまのところ今日子の胸の中には�これは�と思うボーイフレンドはいない。同じクラスの滝谷《たきや》君、中学校のとき仲のよかったサトシ、それからいとこの伸彦《のぶひこ》ちゃん。みんなきらいじゃないけれど、どの男の子も恋人とはほど遠い感じ。チョコレートを贈って、 「あなたが好きです」  と告白するような相手じゃない。今日子も高校二年生。遠くない将来にきっとそんな相手が現れるだろうと期待している……。そう信じてもいるけれど、それはたぶんこの三人のうちのだれかではあるまい。  ——夏枝はだれに贈るのかしら——  信号を待ちながらお菓子屋の店先を見ていると、女子大生みたいなふたり連れがキャッ、キャッと笑いながらハート型のチョコレートを十個くらい買っている。  ——あんなにたくさんいろいろの人に贈っていいのかしら——  今日子ならたったひとつを、たったひとりの人に贈りたいと思う。 「お嬢さん、どうですか」  店員が今日子を見て声をかけた。  頬がポッと赤く染まる。  ——いえ、いいんです。私、好きな人なんかいませんから——  うまいぐあいに信号が青になったので、今日子は店員に背を向け横断歩道をかけ足で走った。  花屋の角を曲がると、だんだん人通りが少なくなる。 「おや?」  今日子は小さく声をあげた。  さびしい坂道の登り口のところに自転車が止まっている。荷台のところにすりガラスの囲いがあって、中に灯がついている。すりガラスは中の光を受けてステンド・グラスのように華やかに輝いている。自転車はみすぼらしいが荷台はとても美しい。  なにかを売る人だとわかったが、いままでにこんな行商人を見たことがない。  ——なにかしら——  駈け足をやめ、ゆっくりと近づいておずおず覗いてみると、自転車のかげに外国人のおばあさんが寒そうに立っていた。  周囲にはほかにだれもいない。 「チョコレートはどうですか」  おばあさんはかなり上手な日本語で言う。  ——ああ、そうか。バレンタイン・デーが近いのでチョコレートを売って歩いているんだわ——  外国ではこんなふうに自転車に乗って売り歩く習慣があるのかしら。わからない。 「とてもすてきなチョコレート。あなたの好きな人に贈りなさい」  おばあさんは愛想笑いを浮かべながらじっと今日子の顔を見つめる。  オーバーのポケットにはお金がはいっている。いくらのチョコレートか知らないが、買って買えないことはなさそうだ。  ——こんな人通りの少ないところで売っていて、ちゃんと売れるのかしら。ひと晩のうちに、いくつ売らなければいけないのかしら——  また冷たい風が吹き抜ける。おばあさんはブルッと身を震わせる。なんだか顔色も青ざめているみたい。  今日子は�マッチ売りの少女�の物語をふと思い出した。  ——おばあさんには燃やして体を温めるマッチもないんだし——  でも、チョコレートを食べれば栄養になるのかな。 「さ、ひとつ、どう。お嬢ちゃん」 「いくらですか」  お菓子屋の店先ではとんと買う気にならなかったのだが、おばあさんの寒そうな姿を見ていると、つい気の毒になって今日子は尋ねた。 「ひとつ二十円ですよ」 「じゃあひとつだけ」 「はい、はい。ありがとうございます。あすはバレンタインのお祭りですからね」 「ええ」  チョコレートは銀と赤の格子模様の紙に包まれている。 「これをあなたの大好きな人に贈りなさいね。あなたの気持ちはきっとその人に通じますよ。その人はあなた以外の人をけっして好きになりませんよ。あなたのことだけを愛してくれますよ」 「はい……」  戸惑《とまど》いながら今日子はうなずく。 「だから、よく考えて本当に好きな人にあげなさいね。忘れちゃあいけませんよ」 「はい……」  おばあさんは巫女《みこ》のように低い声で呟く。  なんだか気味がわるい。空の星が一瞬輝きを増したのではなかったか。あたりに不思議な気配がたちこめたのではなかったか。  今日子は急いで坂を駈け登った。うしろも見ずにひと息で走った。 「よかった」  思わずそう呟いてしまう。  坂のてっぺんからふり返ると、もう自転車は走り去ったのか、あの華やかなすりガラスの光はなかった。  ——だれにあげようかしら——  夜、布団にはいってからも今日子はずっと考えつづけた。  ——滝谷君にしようか——  いや、滝谷君は女生徒に人気があるからきっと大勢からもらうだろう。いい気になっている男を、さらにいい気にさせちゃうのは癪だし……それに、夏枝も滝谷君のことが好きなんだから私が横から邪魔しちゃあわるいし……。頭の中で滝谷君の名前の上に×印をつけた。  ——じゃあ、サトシはどうかな——  中学校のころはいろんな話をしたけれど、学校が変わってしまってからは、もうひとつピンと来ない。このあいだ同級会のときに会ってみて、まるで話が噛みあわないのには驚いた。もう過去の友だちなんだわ。ペケ。サトシの上にも×印をつけた。  ——いとこの伸彦ちゃんは……ダメよねえ——  これも考える余地がない。そりゃ親類の人だから昔から親しくしているけれど、どう考えてみてもボーイフレンドとか恋人とかいうタイプじゃない。まあ、言ってみれば�兄さん�みたいなもの。恋愛ごっこの相手くらいにはなるかもしれないけど、まじめな関係ってわけにはいかないわ。  ——結局、だれもいないじゃない——  思案のすえ結論はいつもそこへたどりつく。  チョコレートは手に入れたけれど肝心の相手がいそうもない。だれか思いがけない人に贈ってみようかしら。  ——すると、その人がたちまち私のことを好きになってしまって——  ウフフフ、わるくないな。  急におばあさんの声が耳の中で響く。 「これをあなたの大好きな人に贈りなさいね。あなたの気持ちはきっとその人に通じますよ。その人はあなた以外の人をけっして好きになりませんよ。あなたのことだけを愛してくれますよ」  馬鹿らしい。おばあさんはやけに自信ありげに言ってたけど、そんな迷信を信ずるわけにはいかないじゃないの。  でも、考えてみるだけなら楽しい。そうだ、タレントのKさん、あの子に贈ってあげようかしら。いま、女子高生たちはみんな夢中になっている。甘いマスクだし、歌はうまいし、やさしそうだし……頭の中身だってKさんは中学で優等生だったんですって……。あんな人とお友だちになれたらうれしいな。  ——よし、このチョコレートはあの人に贈っちゃおう——  今日子はそれまでにKさんはもちろんのこと、ほかのタレントにもファン・レターひとつ書いたことがなかった。でも、初めてのバレンタインのプレゼントを彼に贈ってみるのもおもしろい。 「それに決定」  布団から抜け出し、銀と赤の包み紙の上にさらに白い紙を巻いてプレゼントの小包を作った。  その夜はKさんの夢を見た。夢の中でふたりはいつまでも公園のベンチですわり続けていた。  翌日、雑誌の付録でKさんの住所を調べ、今日子がバレンタイン・デーのチョコレートをKさんに送ったのは言うまでもあるまい。  それから長い、長い歳月が過ぎた。  今日子は平凡なサラリーマンの妻になり、ふたりの子どもはそれぞれに中学と高校に通っている。 「おかあさん、お金を貸して。ね、お願い」  と、長女がせがむ。 「なんに使うの?」 「あすはバレンタイン・デーでしょ。チョコレートを買うの」  このごろの女の子は大量にチョコレートを買って男生徒にバラまくらしい。  遠い記憶が今日子の胸にもどって来る。  ——あのときのチョコレートはどうなったかしら? おばあさんはなにものだったのかしら——  かすかに魔法使いのような印象を宿した老婆だった。得体の知れない外国人だった。その後、見たこともないし噂を聞いたこともない。どんな顔だったかしら。はっきりとは思い出せない。  ——ずいぶん昔のことですものね——  遠い日の情景がなつかしく胸にもどって来る。  タレントのKさんは……そう、あのあと少し落ち目になったけれど、すぐにアメリカン・ポップスのヒット・ナンバーをたずさえて華やかにカムバックをした。俳優として映画や舞台で活躍するようになった。いまでは芸能界の第一人者として君臨《くんりん》している。  ただ、不思議なことに彼には妻がない。愛人もいないらしい。浮いた噂ひとつないのはどうしたことなのか。記者たちにそのことを尋ねられると、彼はいつも言うのだった。 「ええ。捜している女《ひと》がいるんですがね。ずっと昔、夢の中で見た人なんだけど……どこにいるのか、どういう人なのか……馬鹿らしいけど、とにかくその女以外はぜんぜん興味がわかないんだ」  凧 「オメデトゴザイマス」  元旦の朝、ホテルの廊下を歩いていると、いかにもパリジェンヌらしい陽気なメイドがたどたどしい日本語で声をかけてきた。このホテルは日本人客が多いので、だれかに教えられたのだろう。外国語の中で生活をしていると、ほんのかたことだけの日本語でもひどくなつかしい。  ——今ごろどうしているかな——  タザキ氏が思い出すのはやはり家族のことだった。元旦は例年通り鶏のスープでダシを取ったお雑煮だったろう。それから蒲鉾《かまぼこ》にきんとんに黒豆。朝寝坊の朝食をすますと、みんなで荻窪の両親の家へ年始のあいさつに行く。七歳になったヒロシはお年玉をもらうのがなによりの楽しみだ。いや、そうでもないのかな。  つい先日もずいぶんませた口調で言っていたっけ。 「ボクね、お正月が好きなのはお年玉のせいじゃないよ。パパといっしょに遊べるからなんだ」  タザキ氏はいつも仕事がいそがしいので、めったに子どもと遊べない。その埋めあわせに正月休みにはたっぷりとヒロシにつきあってやるつもりだった。ところが急にヨーロッパへ出張を命じられてしまって……。  今年の正月は凧《たこ》遊びの予定だった。金太郎を描いた六枚張りの六角凧。 「これ、本当に天まであがるの?」 「あがるとも」  糸目のつけかたには自信がある。 「よし、これでいい。川っ原であげよう」 「すごいなあ」  ほんの手ほどきをしただけで日本を離れてしまったのだが、昨夜国際電話をかけたときに、 「パパ、ボクひとりで凧をあげられるようになったよ」  と、とてつもなく威勢のいい声が届いた。 「そうか、よかったな」 「うん。グングン高くあがるよ。糸の長さでわかるんだ。百メートルも二百メートルも三百メートルも。だから凧はずーっと遠くの町まで見えるんだよ。糸を握っていると、ボクにもよく見えるんだ」 「そうかい」 「うん。フランスだって、パリだって見えるよ。パパもホテルの窓から顔を出してね」  子どもらしいことを言うじゃないか。  今は夜中の十二時。東京は午前八時だろう。元気者のヒロシはもう凧をかついで川原に出かけたにちがいない。  タザキ氏は窓をあけ、教会の尖《せん》塔のそびえたつ東の空を見あげた。風が冷たい。星が凍りついている。 「おや?」  タザキ氏は目を疑った。教会の高い十字架のむこうに、たしかに、たしかに金太郎の顔が揺れている。 「そんな馬鹿な」  目をこらしたときには凧は風にあおられ、ますます高く舞いあがり東の闇に吸い込まれて消えてしまった。  翌朝、電話が鳴る。 「パパ! 見えたよ。六階の窓から教会の塔を眺めてたでしょう」  破られた約束  四十歳を過ぎたとたんにスズキ氏はもの忘れがひどくなった。  まだぼけるのは早い、そう思ってみても現実に忘れものばかりしているのだから嘆かずにはいられない。  雨傘を置き忘れるなど毎度のこと。先日もスーパーマーケットで代金を支払わぬまま品物を持って外に出て、事情を釈明するのに一苦労だった。  忘れものをするのは放心癖があるから……。  これは幼い頃からのくせだった。道を歩いていても、乗物に乗っていても、時には仕事をしている最中だってそれが単調な作業ならば、心はどこかへ飛んで行って夢想を始めてしまう。それでも若いうちは脳味噌のどこかに冷静なところがあって、さほど大きな失敗をせずにすんでいたのだが、昨今はめっきりその機能が衰えてしまったらしい。  その夜も渋谷駅で新玉川線に乗り替え、電車がしばらく走ったところで、はたと思い出した。  ——タロウに頼まれていた買物があったんだ——  あわてて手帳を見たが、まちがいない。 �デパートに寄って昆虫採集セットを買って帰ること。ジロウにもモーター・ボートの模型を忘れずに�と走り書きしてある。  タロウは小学三年生、ジロウは二年生。申し分のないよい子どもたちだ。子煩悩の親父としては、二人の様子を思い浮かべるだけで頬の肉がゆるんでしまう。  タロウはこのごろ蝶の採集に凝っていて、本格的な標本作りの道具箱がほしいらしい。今日の午後渋谷へ出るついでがあるから忘れずに買って帰ると約束したのだった。 「タロウだけじゃジロウがかわいそうよ。ジロウにもなにか買って来てあげて」  と妻に言われ、ジロウにはモーター・ボートのセットを買う約束をした。二人とも首を長くして待っているだろう。  明日から九州へ出張。今度の出張は長くなるだろう。今日買って帰らなければ、しばらくはデパートへ行く機会がない。スズキ氏の家は新玉川線のつくし野にあって、自然環境には恵まれているが、ちょっと特別な買物をしようとすると不便なことが多い。昆虫採集のセットも、 「東京のデパートで一番いいのを買って来てね。展翅板《てんしばん》や殺虫壜もちゃんとあるやつ」  と、こまかいところまで注文がつけられていた。  車両の中でスズキ氏は時計を見た。  ——これから渋谷へ戻れば、デパートの閉店時間前になんとか間にあうだろう。よし、急げ——  次の駅で電車を降り、向かい側に滑り込んで来た上り電車に乗り替えた。  タロウの夢は科学者になること。科学者になってノーベル賞をもらうつもりなんだとか。ジロウも、なにもわからないくせに、 「ボクもノーベル賞もらう」  と、負けずに叫んでいる。  まあ、よかろう。夢は壮大なほうがいい。  ——一生|※《うだつ》のあがらないサラリーマンじゃつまらない。あの子たちには、一流の人間になってもらいたい。そのために役立つことなら、なんでもしてやるぞ——  そう思っているくせに、頼まれた大切な買物を忘れてしまうようでは、はなはだ心もとない。親父としてはおおいに反省しなければなるまい。  デパートに着いたのは、閉店五分前だった。エスカレーターを駈けあがり、科学玩具の売り場に走って、鞄に入った特上の昆虫採集セットを買い求めた。ついでに�蝶類の採集と標本作り�という本を買い求めた。  もう閉店のアナウンスメントが鳴り響いている。  階段のほうに二、三歩進みかけて、 「おっと、いけない。また忘れてしまうところだった」  プラモデルのセット売り場に戻って、モーター・ボートのセットを買った。 「これでよし」  そのまままっすぐに帰ればよかったものを、めったに来ない渋谷のデパートの裏手に、一軒知った酒場があるのを思い出した。  ——一ぱいくらいいいだろう。今日はおみやげがあるんだし——  約束の買い物を無事に終ったことに気をよくして、ついスズキ氏は酒場の暖簾《のれん》をくぐってしまった。  スズキ氏の足が渋谷駅へ向かったのはもう真夜中の十二時も近い頃だった。 「ああ、飲み過ぎた。いけねえ、明日から出張か。午後の飛行機だったな。用意は明日の朝すればいい」  なんだか大切なことを忘れているような気がした。  次の瞬間、狼狽が走った。腕の下にはなにもない……。  ——しまった! 買い物をどこかへ置いてきちまったんだ——  酔った頭には、なんの心当たりも残っていない。  スズキ氏は、立ち寄った酒場を一つ一つ思い出して戻った。 「すみません。もう閉店ですか」 「スズキさん、忘れ物でしょ。すぐあとを追っかけたんですけど……」  荷物は一番最初に立ち寄った酒場にあった。  ——よかった——  これをなくしてしまっては、なんのために渋谷まで戻ったのかわからない。  ——さあ、急いで帰ろう——  近道を行こうとして横断禁止の道を横切ったとき、自動車のヘッド・ライトが急速に近づいて来るのが見えた。 「くそっ、危いじゃないか……馬鹿っ」  手に持った昆虫採集セットの包みが宙に舞った。モーター・ボートの箱が路面をスケートでもするように滑った。  スズキ氏はつくし野の駅から家に向かう道を大急ぎで歩いていた。  これだけ急いで歩くと、たいていは息切れを起してしまうのだが、今夜はさほどのこともない。  ——とにかく急いで帰ってタロウとジロウの顔を見なくては……もう眠っているか——  気ばかりがあせって仕方がない。  途中で七、八人の人影を追い抜いた。スズキ氏の家は、丘陵を削って建てた建売住宅の一つ。野中の一軒屋というほどのこともないが、西側は松林、裏手の家にはまだ入居者がいない。夜が更けると、ことのほかさびしい。科学者を夢見るタロウとても、幽霊の存在を思わずにはいられない。  ——もう何時頃かな——  坂をくだり、椿の木の生い繁った角を曲がって三軒目……。  突然、犬が狂気のように吠えたてた。  ——馬鹿もん。驚かすな。隣の家の主人の顔くらい覚えておけ——  門を通り抜け、玄関からそのまま子ども部屋へ進んだ。  ——なんだかおかしい——  靴を脱がずに家の中へあがってしまった。  だが、べつに靴を履いているわけでもない。またしても狼狽が走り抜ける。 「おみやげは……おみやげはどうしたんだ?」  手にはなにひとつ持っていない。  スズキ氏は意識を集中して思い返した。  ——そうだ。今夜は帰りの電車の中で、子どもたちに頼まれた買物を買わずに来たことを思い出したんだ。それで渋谷に戻ってデパートへ駈け込み、昆虫採集セットとモーター・ボートのセットを買ったんだ。それからついうっかりと酒場に足を向け、そのまま三、四軒廻り、買物をどこかに忘れて来たことに気づいて戻ったんだ。最初の酒場で忘れ物を見つけて、それを小脇に挟み、大通りを渡ろうとして……それから、そう、急に車のヘッド・ライトが走って来て——  それから先の記憶は白くかすんでいる。救急車のサイレン。クレゾール消毒液の匂い。  突然、激しい不安に襲われ、スズキ氏はわれとわが姿を凝視した。  ——やっぱりそうか——  体は透き通るように薄れ、腰から下はなにもない。隣家の犬が激しく吠えたのも無理がない。このままの姿で渋谷から宙を飛んで来たらしい。せめてひとめだけでも子どもたちの顔を見ようと思って……。  襖をあけた覚えもないのに体はもう子ども部屋に入っていた。  兄弟は布団を並べて眠っている。  気配を感じて先に眼をさましたのは、ジロウのほうだった。  ジロウは眼をポカンと見開き、隣に眠っているタロウを揺り起こした。  タロウも闇の中に異様なものの姿を見つけて、真実恐怖の表情を浮かべた。 「あ、あーッ」  人間が体験しうるすべての恐怖の中で、もっとも恐ろしい恐怖を二人の兄弟が感じている……。そのことは表情から明白だった。このショックは一生二人の脳裏から消え去らないだろう。  スズキ氏は思った。  ——しまった——  スズキ氏は、このときに至ってもう一つ大切な約束を忘れていたことを思い出した。 「お父さん、もしもサ……あのね、もしもの話だよ、もしも外で死んだりしても、絶対お化けになんかなって家に帰って来ちゃいやだよ。ね、お願い。ボクたち、怖いから。約束して。絶対に忘れちゃ駄目だよ」  地震恐怖症  オフィスの朝。とうに始業時間を過ぎているのにキムラ君の姿が見えない。 「課長。キムラ君は今日も休みですか?」  もう三日も欠勤が続いている。 「うん。さっき奥さんから電話があった」 「病気ですか」 「体調がわるいらしい」 「風邪ですかね」 「ウーン。体調をくずしたらしいな」 「はあ?」  私は曖昧《あいまい》に答えたが、ピンと思い当たるものがあった。  キムラ君は学生時代には陸上競技の選手だった。体はめっぽう丈夫のほうだ。ちょっとした病気くらいで会社を休むはずがない。彼の弱点は、地震恐怖症……。  いつか酒場で酒を飲んでいたときに小さな地震があった。あのときのキムラ君のあわてようと言ったら……。いきなりテーブルの下に潜《もぐ》り込みガタガタと震えていた。震動が消えたあとも顔をまっ青にして、しばらくは口がきけなかった。 「そんなに地震がこわいのか」 「…………」 「しっかりしろ。ちょっと揺れただけじゃないか」 「…………」  気持ちが落ち着いたところで尋ねてみたら、 「とにかく生理的に駄目なんだ。こわくて、こわくて、気が変になりそうになるんだ」  と、真顔で言っていた。  考えてみれば、ここ二、三日、関東地方で何度か軽い地震があった。  昨夜も十二時過ぎに電灯が揺れるほどの軽震があった。明けがたにも軽く揺れた。大きな地震の前ぶれみたいな気がしないでもない。さぞかしキムラ君はこわがっているだろう。  会社の帰りにちょっとキムラ君の家を訪ねてみたら、奥さんが申しわけなさそうな顔で現われて、 「今は普通にしていますけど」  と、目の動きで家の奥を差す。 「やっぱり原因は地震ですか?」 「このとこ何度か揺れたでしょ。そのたびに机の下に飛び込んで、本当にこわがるんです。そのあとしばらくはなにも手につかないみたいで……。会社であんな姿を見られたら大変だと思いましてねえ」 「なるほど」  キムラ君は思いのほか元気だった。 「すみません、わざわざ」 「いや、ちょっとついでがあったもんだから。どうかね。奥さんに聞いたんだけど相変らず地震がこわいんだって?」 「うん」 「べつにどうってことないだろ。あのくらいの揺れなら」 「あのくらいの揺れかどうかわかんないからこわいんだ。カタカタと小さく揺れ始めるだろう。ああ、このままひどい地震になるかもしれないな。ああ、少し強くなったみたいだ。ああ、大地震が来るぞ。そう感じている四、五秒がものすごくこわいんだ。自分でもよくわからない。体がいきなり机の下へ飛び込んでしまう。歯の根もあわないほど震えちゃう。このごろみたいに地震がチョクチョクあると、会社でもやっちゃいそうでね」  キムラ君は深刻な面持ちで述懐する。 「君はこわがりのくせに地震のことを知らないな」 「どうして?」 「今の話を聞くと、カタカタ、カタカタ周囲が揺れだして、なんだか大きな地震になりそうな、あの瞬間がこわいんだろ」 「そうなんだ」 「しかしね、大地震というものは初めカタカタ小さく揺れていて、それからだんだん大きくなって、ついにグラッと来るってことは絶対にないんだぜ。本物の大地震はこわがるひまもなく最初からグラッと来る。カタカタ、カタカタ揺れるのは、小物の証拠なんだ。心配することはないよ」 「本当か」 「本当だ。地震計の記録を見ればすぐにわかることだよ」 「いいことを聞いたなあ」  キムラ君の顔はたちまち明るく晴れた。真実、胸の不安から解放されたようにみえた。 「もう大丈夫だよ」  帰りがけにキムラ君は私の手を握って力強い言葉を告げていたが、翌日も、そのまた翌日も会社へ姿を見せない。  私は不安になって、キムラ君の家へ電話を入れてみた。奥さんが電話口に出て小声で呟いた。 「はい。課長がお帰りになった直後は�カタカタ揺れてる地震は小物なんだ。今に大きくなるんじゃないかって心配する必要なんかないんだ�って喜んでいたんですけど、そのうちに�大地震はいきなりグラッと揺れだすのか�って叫んだかと思うと、今度は四六時中机の下に潜り込んでしまって……。それまでは小さく揺れだしたときだけ震えていたんですけど」  遠い夜 ショートショート三題噺・出題者=松島トモ子 題=茗荷《みようが》   電話帳   あやつり人形  冷たい雨の降る夜だった。  小料理屋のカウンター。女が一人で酒を汲んでいる。  テレビでよく見かける顔。三十を過ぎているのだろうが、表情は華やかで、充分に美しい。 「久美さんはあんまり週刊誌になんか噂が載《の》りませんね」  板前が包丁の音を響かせながら声をかけた。店にはもうほかに客の姿もない。 「ああ、そうね」  女は曖昧《あいまい》な声で答える。 「男なんか卒業ですか」 「そうでもないけど、いそがしくて」 「いそがしくても、やる人は結構やっているんでしょ」 「そうねえ。まめな人もいるから……。私も昔は少しくらいやったのかしら。ウフフ」  女は残りの酒を口に運びながら少し笑った。 「昔ったって……まだ現役でしょうが」  板前は茗荷《みようが》を刻んで小鉢に盛り、鰹《かつお》ぶしをかけて差し出す。 「好きな人が現われれば、いつだってやるわよ」 「いくらでもいるでしょうに」 「そう簡単にはいかないわ。夢中にならなきゃつまんないし、夢中になったら毎日が大変よ。今のまんまでいいの。結構楽しくやってんだから。惚れたの、はれたのって四六時中ドキドキしてたんじゃ、身が持たないわ」 「なるほどね」  板前は適当な相槌《あいづち》を打つ。 「これ、茗荷? 今が旬《しゆん》なの? おいしい」 「温室栽培ですがね。酔ったあとは、さっぱりしていいでしょ」  女は箸をななめに使いながら薄色の香りを口に運んだ。 「でも茗荷って、あんまりたくさん食べると忘れっぽくなるんですって?」 「さあ、どうですかね。落語にはありますけど」 「あ、ほんと?」 「宿屋の主人がお客からお金を預かるんですよ、たしか。それを忘れさせようとして茗荷をたくさん食べさせるんですけどね」 「ええ……?」 「ところがお客のほうは宿賃を払うのを忘れちまって。そんな話じゃなかったですか」 「聞いたことあるみたい」 「ありますよ。有名な話だから」 「お銚子、もう一本いただこうかしら」 「どうぞ」  話が途切れ、薬缶《やかん》だけがかすかな声をあげている。  外の通りを足音があわただしく駈けて行った。ハイヒールの響きかしら?  ——いつかもこんな夜があったわ——  女はぼんやりと思い出す。茗荷の香りが遠い日の記憶を胸に運んで来る。  そう、あれは……初めて主役を務《つと》めた舞台が大好評で、数人の仲間と一緒に六本木のスナックで祝盃をあげた夜だった。洋風の店なのに奇妙に和食のメニューがあって、茗荷スライスなどが出る。  気分は最高に浮き立っていた。舞台に立つ者には�一夜にして世界が変る�ときがあるんだとか。あの夜がそうだったのかもしれない。飲むほどに酔うほどに、 「あ、いけねえ。大事な電話を忘れていた」  だれかが大きな声をあげた。  ——あら、私も忘れていた——  一瞬、得体の知れない不安がフッと脳裏をよぎった。  ——せめて彼に電話くらいかけてあげなくちゃあ——  五日ほど前�彼�から手紙が届いた。 �舞台は好調のようですね。陰ながら成功を祈っております。こちらは相変らず|※《うだつ》があがりません……。いたずらに年を取っているうちに、また年の瀬がやって来ます。そう、何年目かの十二月。あなたはもう忘れてしまったでしょうけれど……あの冷たい夜が僕にとってどれほど暖かい夜であったか。肌のぬくもりを昨日の出来事のように思い出すことができます……。あなたの声が聞きたい。声さえ聞けば立ち直れるような気がします。電話でかまわない。たった一言でかまわない。あなたの声がほしい。どうか忘れずに……。十九日から旅に出ます�  短い手紙だったが、不思議に息苦しい気配が漲《みなぎ》っていた。  ——今夜は十八日——  彼は手紙を投函してからずっと待ち続けていたのではあるまいか。  電話をかけようと思ったが、驚いたことに電話番号が思い出せない。昔はなによりもよく記憶していた番号だったのに。  あわてて電話帳を捜したが、スナックには備えてなかった。 「ちょっと出て来るわ」 「どこへ行く? いい男に会いに行くんだろ」 「ちがうわよ。すぐに戻って来るわ」  声を振り切って外に出た。冷たい雨が落ちていた。あちらの電話ボックス、こちらの赤電話、ハイヒールで雨の道を走った。電話帳は喫茶店にも見当たらない。一〇四番にかけてみたが、いっこうに通じない。  あきらめてスナックへ戻った。 「もう少し飲めよ。強いんじゃないか」 「ええ」  飲んでいても不安が小骨のように喉にささっている。  仲間と別れたあとでタクシーを飛ばす気になったのは、なぜだったろう。  ——あのときスナックに電話帳があったら——  何度か思い返したことだった。 「どうしました?」  板前がまな板を洗いながら尋ねた。 「この店にも……電話帳、ないわね」 「どこかへかけるんですか」 「ううん、いいの。どうしてどこの店にも置いてないのかしら」 「かさ張るからでしょ。せまい店じゃね。一〇四に聞きましょうか」 「いいのよ。べつに今いるわけじゃないから。昔ね、電話帳がなかったばっかりに……」 「はあ?」 「どうしてもかけなきゃ駄目な電話を忘れちゃったの。そのときも茗荷を食べていたわ」 「まさか」 「本当よ。茗荷って効くみたい。物忘れをするのかしら。遅くなってから電話の人のところへタクシーを走らせたわ」 「相手は男ですね」 「かもね。昔、住んでたところだから道はよく知っていたの」 「いい話じゃないですか。昔、一緒に暮らしていた男のところへ急に思い出してフラッと訪ねて行くなんて」 「そんなんじゃなかったわ。電話番号も思い出せないくらい忘れていたんだから」 「なるほど」 「ただ一声かけてあげれば、役に立つような気がして……。彼、あんまり仕事がうまくいっていないみたいだったし」  女の視線がどこか遠いところを捜している。 「喜んだでしょう?」  女は板前の言った言葉の意味がよくわからないように眼をあげた。女の表情がかすかに強張《こわば》っている。 「変なものね。電話帳があればそれでよかったのに」 「…………」 「アパートの脇に大きな公孫樹《いちよう》の木があったの。もう葉っぱなんかすっかり落ちてしまって。だから暗かったけど、よく見えたわ。彼がその木のところで……」 「待ってたんですね」 「ええ……。待っていたのかもしれないわね。板さん、見たことないでしょ?」 「なにを?」 「あやつり人形」 「あやつり人形?」 「そう。頼りないものね。人間の体なんか。風に吹かれて……雨に打たれて、糸で引くみたいに揺れていたわ」  板前の手が止まった。  女は思う。一緒に暮らしたアパート。ままごとみたいな生活。苦しい時代を、たがいに疵《きず》をなめあうようにして生きていたっけ。あれからもう何年たったのかしら。 「その人が初めての方ですか」  板前が細い声で尋ねた。  女はうつむいたまま小さく首を振り、次に顔をあげたときにはもういつもながらの人気稼業の微笑に戻っていた。 「忘れちゃったわ、みんな。茗荷って本当に効くみたい。とてもおいしかった」  席を立って格子戸《こうしど》を開けた。  外は雨。今夜はみぞれに変るかもしれない。  真夜中のインベーダ  テレビの画面にエンド・マークが映り、映画が終った。  宇宙の果てから醜悪な星人どもが押し寄せて来て地球の女たちを襲い、奪い去っていく——そんな筋立てのSF映画だった。 「ねえ、宇宙人て本当にいると思う?」  ハナコがベッドの上で小首を傾げながら尋ねる。上気した表情がういういしい。 「そりゃ広い宇宙だからな。いるかもしれんさ」  マサオが片頬で笑って答えた。 「じゃあ、突然地球を襲って来るかもしれない?」 「絶対にありえないとは言えないね。UFOを見た人だっていっぱいいるんだから」 「きっと大戦争になるわね」 「それはどうかな。はるばる地球にまで飛んで来るほどの科学の知識を持っているんだから。地球人は勝てっこないさ」 「それじゃ今の映画みたいに地球の女は襲われちゃうの? トカゲみたいな男たちに」 「さあ、地球の女に興味を持つかどうか、わからんよ。第一トカゲみたいな恰好かどうかだってわかりゃしないし。もしかしたら地球人にはぜんぜん見えない生物かもしれないぞ」 「意外に草刈正雄みたいなハンサムだったりして……」 「そうかもしれん。アハハハ。いずれにせよ宇宙人に滅ぼされないうちにせいぜい仲よくしておかなくちゃあ」  マサオは満足そうに笑いながら話を打ち切り、ハナコのほうへスイと腕を伸ばした。  新婚二ヵ月目。真実蜜のように甘い日々が続いている。  指先と指先がからまると、たちまち唇が重なり体が寄りそう。 「大好き、マサオ」 「オレも大好きだ。ハナコ」  男の掌が女の夜着の下に届くとハナコの唇から、細い息が漏れた。  愛のしぐさを続けながら、マサオが急に真面目な表情を作って、 「オレ、本当は宇宙人なんだぞ」  と、呟く。  新妻は細く目をあけ、そんな悪戯を微笑で受けとめてから、 「いや、そんなの」  と、さらに甘えるように男の体に身をからめた。  マサオの脳裏に、たった今見た映画の断片が残っている。星人たちは鱗《うろこ》のはえた指で地球の女たちをむさぼっていた。もしもハナコがあんな男たちに犯されたなら……。それをまのあたりに見せつけられたら……そんな連想が彼の心を高ぶらせる。 「あ、待って」  ハナコが身を起こした。 「どうした?」 「ごめんなさい。アレの買い置きがないの」 「アレ? ああ、そうか」  夫はすぐに理解した。夫婦の大切な夜の小道具が切れているのだろう。 「じゃあ薬局へ行って買って来よう」 「今ごろあいていないわ」 「いや、自動販売器が店の前にある」  マサオはパジャマの上着のままズボンだけはき替えあたふたと部屋を出て行った。  自動販売器は、町角の街灯が作る黒い影の中にひっそりと立っていた。なぜかそのあたりにだけ異様な空気が立ちこめているように見えた。 「おかしいな」  マサオはブルッと身震いをする。風邪でも引いたのだろうか。  コインを入れると空の星がいっせいに輝きを増した。天の一角をサッと青白い光が走り抜けたのではなかったか。 「どうもSF映画の見過ぎらしい」  マサオは首を振り振り家へ戻った。ベッドではハナコが肌をあらわにして目を閉じていた。  もう一度激しい愛撫が始まり、体が折り重なる。  だがいったい今夜はどうしたことだろう。なぜかいつもの夜に比べて喜びの度合いが稀薄なように感じられて仕方ない。マサオにとっても、ハナコにとっても……。  その頃、二人の�男�たちが街角で話していた。 「もう戦争はこりごりだ」 「うん。しかし戦争なんかしなくたって大丈夫だ」 「まったくだ。うまくいった」  いったい彼等の脳味噌はどこにあるのだろう? 宇宙を翔けるほどの知能の秘密はどこに潜んでいるのだろうか?  星人たちは街角に小さな基地を作った。その中でじっと待ってさえいれば地球の女たちを征服できるのだった。 「ここで子孫を増やそう」 「地球の女はわるくない」 「うん。まったく全身がとろけそうだ」  彼等の体は薄い皮膜だった。そして十センチばかりの、中空の筒状になっていた。  不運なシャツ 「なんだ、ワイシャツがないじゃないか」  出勤の仕度をしていたカネダ氏がいらだたしそうに呟いた。 「あら、ごめんなさい。先週も先々週も洗濯屋さんの来る日に留守をしていたもんだから……。でも、ひとつもないってことはないんじゃない?」  カネダ夫人が申し訳なさそうに言う。 「みんな首まわりの小さいやつばかりだよ」 「うそ。縞のがあるでしょ」  夫人は洋服箪笥の中をのぞきこみ、太い縞がらのシャツを取り出した。 「これは、まずいんだ」 「どうして?」 「どうしてって……はで過ぎるよ」  カネダ氏はためらいがちに答えた。 「いいじゃない。このごろみんなこのくらいの着てるわよ」  夫人はカネダ氏の戸惑うような様子に頓着せず、ビニールの袋を破って縞がらのシャツを差し出す。カネダ氏はしぶしぶ腕を通した。  夫人には�はで過ぎる�と言ったが、このシャツを着たくない本当の理由はそれではなかった。  なんと言ったらいいのだろう。運がわるいのだ、このシャツを着た日は。  三ヵ月前、出張先の会食でなまものを食べ、二人が中毒死を起こした事件があった。カネダ氏は激しい下痢だけで、からくも助かったが、あのとき着ていたのがこのシャツだった。下痢のおかげで仕事もさんざんだった。  二ヵ月前、タクシーに乗っていて事故にあい、隣席の男が死んだときにもこのシャツを着ていた。  そればかりではない。一ヵ月前にもいやな思いを味わっている。癌の検査を受けて入院を勧められ�これはいかんぞ�と思った日もこのシャツだった。精密検査を受けた結果�なんの心配もなし�とわかったが、どうもこのシャツは縁起がわるい。ろくなことが起きない。とくに迷信にこだわるほうではないけれど、これだけ不運が続くとやっぱり考えてしまう。  そもそもこのシャツを入手したいきさつからしておかしかった。お仕立て券つきの生地がデパートから届き、送り人のところを見たが名前が記してない。 「だれだろう?」 「へんね。気味がわるいわ」  と妻と話しあった。  包みをあけたとき�御多幸を祈ります�と書いた紙があったっけ……。  だれかの悪戯《いたずら》だろうと思って、さして気にも留めずそのまま仕立てさせて着たのだったが、着るたびにおかしなことが起きてしまう。  もちろん、初めは気づかなかった。病院に検査を受けに行ったとき脱衣所で�今日ははでなシャツだな�と思い、それから急に�この前の自動車事故のときもこのシャツだったぞ�と思い出した。  さらに考えてみると、その前の食中毒のときもそうだったとわかった。はでなシャツなのでそうしょっ中は着ない。着たときのことはみんなよく覚えている。  ここ三ヵ月ばかりのあいだに三度着て、三度ともあやうく死にかけた。とても着る気になれない。 「やーめた」  カネダ氏は小さくつぶやいて、いったん腕を通したシャツを脱いだ。仕方ない。少し首まわりの小さいので我慢しよう。多少窮屈でもこのほうが一日安心して仕事ができるだろう。 「あら? どうしたの」  夫人は怪訝《けげん》そうに首を傾けたが、カネダ氏は、 「うん、今日は白のほうがいいんだ」  そう言って家を出た。  どこのだれが贈ってくれたかわからないシャツ……もしかしたらこの世界のどこかに悪魔が住みついていて、そいつが時おりこんないたずらをするのだろうか。  包み紙の下には�御多幸を祈ります�と書いてあったが、そんな文句はちっとも当てになりゃしない。悪魔はそんな文字を書きながら心の中でさぞかし長い舌を出して笑っていたにちがいない。  論より証拠、たった三ヵ月のあいだに次々に奇妙なことに遭遇するなんて……。  しかし、白いワイシャツを着ていればもうなんの心配もあるまい。会社に着いたカネダ氏はもうシャツのことなどすっかり忘れてしまった。午後には大きな仕事を一つまとめ、帰りがけに上役といっぱい飲んで帰路についた。  グワーン。  大きな響き。ダンプカーがカネダ氏をはねあげたのはその直後だった。目撃者の証言によればほんの一〜二分彼は生きていたとか……。  そのわずかな時間にカネダ氏は悟ったはずである。 「しまった。あれは幸運のシャツだったんだ。あやうく死ぬところをいつも助けてくれたんだ」 ネズミ酒  ネズミ酒  お客さん、近頃よくお見えですね。  ああ、東町に分譲住宅をお買いになったんですか。お若いのに、偉い。高かったでしょうが……。  なるほど、奥さんと共働きで……。  わかった。奥さんのお仕事は月、水、金ときまっていて残業かなにかがあるんでしょ。それで、お客さんはひとりで膝小僧かかえていてもしょうがないから、その夜はここへ飲みにいらっしゃる。ねえ? はい、水割りをもう一ぱいですね。  図星でしょうが。ここじゃ常連さんが多いから、お客さんのこと、ひとりひとり観察して、この人、どんな人かな、なんて思っているんですよ。  お客さんのお勤めは、この町じゃないね。でもここで分譲住宅をお買いになるくらいだから、ここからそう遠くはない。N化成か、P石油か一流企業の技術屋さんと睨んでいるんですよ。アハハハ、当たったでしょ。まるでシャーロック・ホームズだね、こりゃ。なんとなく匂いでわかるんですよ。  この町もね、昔はなんもない漁村だったらしいね。いえ、私ゃ知りません。私はここへ来てからまだせいぜい七、八年だから。東町のあたりは海だったって話ですよ。それを埋め立てて……。  大きな工場が二つも三つも誘致されて、それで急にふくれあがったんですね、このへんは。私が来た頃で、人口が二千あったかどうか。  そりゃ、自然が破壊されるのはうれしかないけど、ちっぽけな漁村じゃなんの金儲けの道もないしね。鰯《いわし》の四、五匹とれたって、どうもならん。背に腹は替えられんでしょうが。工場ができれば、町は整備されるし、人口は増えるし、地価はあがるし、生活は楽になるし……昔はね、ちょっと時化《しけ》が続くと、娘を売らなきゃならんかったんだね、ここらあたりじゃ。それに較べりゃ……景色なんか……景色をながめてると腹がいっぱいになるわけじゃなし。あ、すみません、私にも一ぱいくださるんですか。  いえ、飲めないくちじゃありませんがね。酒場の親父が自分で飲んでたんじゃ一円にもならんからねえ。じゃ、どうも、遠慮なく。私はストレートでいただきます。水割りもよろしいけど、本当に味がわかるのは、やはりストレートだね。うちのウィスキー、味がよろしいでしょ。アハハハハ、どうしてかって?  企業秘密、企業秘密、種あかしはできません。ちょっと細工がしてあってね。  同じウィスキーだって、ちょっとした心使いでおいしくもなるし、まずくもなる。そのへんがバーテンダーの腕のうち……なんて言ったら嘘になるか。  ええ、もう二十年以上もこの道をやってるのかな。いや、いや、そんないい仕事じゃありませんよ。ご覧の通り。いまだに女房も持てずにフラフラしてるんだから……。人に勧められる仕事じゃないね。そりゃ若いうちは多少カッコウはいいし、女の子にももてるし、いい思いもできたけど、四十過ぎたらもういけませんよ。  まあ、この年になって、いつまでも人に使われていたんじゃつまらない。流れ者の生活から足を洗って小さいながらも自分の店を持とう、そんなしおらしいこと考えるようになったんですよ。お客さんみたいな一流会社のエリートさんには、なかなかわからん生活ですわ。  この町かね? いえ、生まれ故郷ってわけじゃないね。自分が住むまではぜんぜん知らんところでしたよ。一度くらい車で通ったことがあったかなあ。縁もゆかりもないとこですわ。  ちょっと東京に居づらい事情があって、ちょうどいい機会だから、どこか地方の町へ都落ちでもして店を持ってみようか……初めはせめて地方の県庁所在地くらいの町を考えていたんだけどね、そういうとこはもう酒場なんか掃いて捨てるほどたくさんあるし、他所者《よそもの》が行ってうまく商売ができるはずがない。権利も意外と高いしね。  新興の町がよかろうと思ってたら、たまたまこのへんの土地が売りに出ていたもんだから……それだけのこってすよ。  いやあ、初めの頃は苦しかったねえ。すぐにでも工場が建ち、住宅が建つような話だったから、こっちも出遅れちゃあいけない、この界隈で第一番の店になろうって……毎日監視に来て大工たちの尻を叩いたんだけど、こっちの店ができてみれば、工場のほうの建設はいっこうに始まらないし、住宅だってそうすぐには建ちゃしない。  そりゃ初めっからポンポン儲かるとは思っていなかったけど、あれほどひどいとは予想しなかったね。半年たっても一年たっても閑古鳥が鳴いているのにはまいったね。  用意しておいた運転資金も底をついてしまって、もういよいよ駄目かなって思った頃になって、ようやく工場が動きだしてね。  聞いてみりゃ、工場の設備に危険がないか、なにを製造する工場なのか、住民運動の反発なんか食わないよう、土地の顔役を使って根まわしをやっているうちに時間をくっちまったらしいね。いくらかヤバイことやってんだよ、このあたりの工場は……。仕方ないよね、モタモタしてたら会社だってやっていけないさ。  仕事が始まれば、ドッと人は集って来るし活気は出るし、このあたりにはほかにスナックも酒場もないからね。たちまち大入りさ。  はいよ、水割りのおかわりね。  あ、すみません、私にももう一ぱいですか。いただきます。  えっ、儲かっただろうって? ああ、工場が動きだしたときですか。それが大笑い。お客が押しかけて来たとたんに、肝心の酒のほうがなくなっちまった。  ね、おかしいよなあ。普通なら考えられんことだよ。  東京の、多少顔のきく酒屋に頼んで酒を卸《おろ》してもらってたんだけど、なにしろ金がないもんだから、それまで一銭も支払いをしてなかった。「いい加減代金を入れてくださいよ」「すまん。ほかの借金を払うので精いっぱいなんだ」「そんな馬鹿な話があるものですか。もう酒を入れませんよ」「どうせお客が来ないんだから、酒なんかいらないッ」こっちも気が立ってたから喧嘩をしちまって、今度急にお客が増えて来ても、なかなか品物を持って来てくれないんだよ。  ホント。お客がいるのに酒のほうがもうすっかりなくなっちまった日があったなあ。昼のうちに電話しておいても「はい、はい」なんて返事をしておきながら持って来てくれないんだから。くそッ、あんな酒屋、二度とつきあってやるもんか。酒屋なんかほかにいくらでもあるんだから。そう思っていたときちょうど妙な男が酒の売り込みに来てね。セールスマンにしちゃやけに陰気で、ちょっとネズミみたいな顔をしている。私ゃ、こっそりネズミ男ってあだ名をつけたんだけどね。  いえ、べつに特別なウィスキーを持って来たってわけじゃないんだ。 「サントリーでもニッカでもオーシャンでも、ご指定の銘柄を配達いたします。お代はほかの店より勉強させていただきます。決済は半年後ということで……」  どの条件を聞いても、どこの酒屋よりもいい。渡りに舟ってものですわ。 「じゃあ、お願いします」って注文しましたよ。すると相手が、 「ただ、たった一つだけ……」 「なにかね?」 「どなたにもお話になっては困ります。よろしいですね」 「ああ、口は堅いほうだ」 「すみませんが、ウィスキーの中にこのエキスをちょっと入れてくれませんか」  そう言ってネズミ男のやつ、ポケットから茶色の液の入った小壜を取り出したんですよ。 「なんだね」 「ウィスキーや清酒の味をよくする薬です」 「本当かいな。まさか毒じゃあるまいな」 「とんでもない。現に私が飲んでお目にかけます」  ネズミ男のやつウィスキーに一、二滴たらしてグイと飲んでみせたよ。それから舌なめずりをして、 「確実に味がよくなります。目下実験中でして……。どうかこの店で飲ませるお酒にすべてこの液を垂らして、それでお客がどんな反応を示すか�この店の酒はなんだか他と違っておいしいね�と言うかどうか、その感想をさりげなく聞いて報告していただきたいんです。いかがでしょうか」  報告に対しては、そのぶん別に協力賞をはずむという話なんだね……。  私も一、二滴垂らして飲んでみると、たしかにおいしくなったような気がする。まあ、気のせいだったかもしれんけど……。  しかし、たとえおいしくならなくても、まずくさえならなきゃ答はきまってらあね。こっちは酒がほしかったし、取引きの条件は抜群にいいんだし……。 「いいよ」  そう返事をしたら、その日のうちに必要な酒を必要な分量だけ届けてくれた。いい問屋を持てば、この商売もやりやすいよ。金のことはうるさくないし、電話一本かければいつでも即刻酒を入れてくれるし……。  もちろんオレのほうも約束を守ったさ。なにべつにたいしたことじゃない。口をあけた壜なら、茶色のエキスを数十滴垂らしておけばいいし、新しい壜の酒なら、マドラーに液をつけてクルクルとかきまわせばそれでいいんだから。  不思議だねえ。やっぱりあのエキスのせいでいくらか味がよくなるのかな。たしかにお客さんの中で言う人がいるんだよなあ。 「この店の酒、うまいぞ。味がまるい感じでいい」  とか、あるいは、 「ウィスキーが軽く感じられるな。いくら飲んでも悪酔いしない」  とか……。  ああ、お客さん、覚えていますか。あんたもそう言ったですよね。  私のほうは報告のため記録を取ってるからよく覚えていますよ。  いくらか習慣性があるんじゃないのかな、このエキスは。いったんうちの酒を飲んじゃうと、どうも他の店の酒がまずくなるのと違いますか。事実私もそんな気がするんだな。  商売のほうはそれからトントン拍子ですわ。今夜はちょっとすいてるけど……。あの、ご存知でしょ。今日明日はここの工場が二つとも創立記念日で、いっせいに休みなんだね。みなさんどこかへ出て行ってしまって、それでお客さんが少ないけど、いつもはこの時間帯は大入り満員だよ。会社の人たちはもちろんのこと、この町の飲んべえがたいていお得意さんだから。このごろは夜中の二時までやっていても席がいっぱいだ。特に土曜日の夜なんかいつまでたっても店がしめられないよ。みんなエキス入りの酒を飲んで「おいしい」「うまい」だと……。エキスさまさまですよ。  ま、それは結構なんだけど、私も不思議に思って、例のネズミ男に尋ねてみたんですよ。 「たしかに評判はいい。これはなんのエキスなのかね」  なかなか教えてくれなかったよ。でもしつこく尋ねたら、ニヤニヤ笑いながら、 「ネズミ酒ですよ」  ネズミ男がネズミ酒だなんて、びっくりしたなあ。 「ネズミ酒? 聞いたことないな」 「そうでしょう。秘密の製品ですから。ネズミの脳味噌のエキスを抽出して、それを濃縮したものです」 「なんでそんなものがいいのかね」 「これ以上はお話できません。まあ、ネズミなんてものは、だれにとってもあまり気持ちのいいものじゃないから、くれぐれも黙っていてくださいよ」  こっちとしては理屈なんかべつにかまいやしない。酒がおいしくなって、それでよく売れればそれでいいんだから……。  不思議なものだなと、その時はそれ以上深く考えずにいたんだけどネ、そのうちにだんだんわかって来たよ。ネズミ男も親しくなるにつれて少しずつ話してくれたしね。  わかる? わからんよねえ。ネズミ酒と言えばたしかにネズミの酒かもしれませんけど、ただのネズミじゃないんだから……。  いや、私は動物のことなんか競馬の馬をのぞけばまるで知らんから、チンプンカンプンだったんだけどね。話を聞かされてから百科事典を引いて調べてみたよ。  あ、水割りをもう一ぱい?  お客さんもよく飲むね。毎晩六ぱいは確実に召しあがる。週に三回来て、もうかれこれ二年ばかりになるから、千五百ぱいは飲んだね。もうネズミ酒の中毒になってますよ。  ま、だから私も秘密をうち明けているんだけどね。もちろん私だって中毒だ。この味に慣れたらもうやめられませんわ。  ええ、そうなんだ。ネズミの脳味噌のエキスと言ってもただのネズミじゃないんですよ。  お客さん、知ってますか。ヘンテコなネズミがいるんだね。レミングって名前のネズミ。このレミングって野郎はある日、突然群をなして海に向っていっせいに走り出し、群全体が自殺をしてしまうって……理由はわからんけど、とにかく数が増えると集団自殺をするんだな。  アハハハハ、どうもこの酒を飲んでいるうちに、私もレミングの気持ちがわかるようになってきてね。  あんたの会社じゃなにを作っているんですか。やっぱり危険なものじゃないのかね。  うん、この町の工場じゃ、ヤバイことやってるよ。こっそりと核エネルギーの開発をやっているらしいよ。爆弾だなんて話も聞くけど……。  まあ、いいじゃないかね。おたがいに今がしあわせなら。いまにみんなで衰びたって。  それにしても、あのネズミ男、工場のまわし者なのかな……住民の反対運動が起きないように、町中をネズミ酒びたりにしようとして……、笑い顔が陰気で、なんかこの世の者じゃないみたいなドス黒い笑いだったけど……。  一年生のために  校庭の桜もつぼみをふくらませ、新入学の季節が近づいて来た。  子どもたちはピカピカに光ったランドセルを床の間に飾り、指折り数えて入学の日を待っていた。  町の小学校は三本の国道に囲まれた三角地帯のまんまん中。トラックがひっきりなしに通る騒騒しい新開地にあった。  一年一組の担任は眼鏡をかけたスズエ先生。まだ大学を出たばかりの若い女教師だ。学生時代はさぞかし成績優秀であったにちがいない。見るからに生まじめそうなタイプである。  入学式の日を前にしてスズエ先生の心はひどく苛立《いらだ》っていた。  ——いくらなんでもひどすぎる。こんなことでは、とても満足な授業なんかできっこないわ——  そう思わずにはいられない。新入生の名簿を見るたびにため息が出る。憤りが胸を突き刺す。  彼女が大学で習った知識によれば、小学校低学年のクラス編成は�三十人くらいが理想的。多くても四十人が限度�ということではなかったか。  ああ、それなのに、スズエ先生が受け持つ一年一組は、なんと六十名もの生徒がいるんだ。こんなことでは、とても配慮の行き届いた教室作業ができるはずもない。教育実習では�優�をいただいたけれど、あの時も三十二人のクラスだった。六十人のクラスなんて、本来文明国の学校にはあってはならない存在なのだ。 「校長先生、こんなクラスじゃとてもまともな授業はできません。クラスの人数を減らしてください」  スズエ先生は唇をとがらせて抗議をしたが、タヌキ顔の校長は、 「急に住宅が増えちまったからねえ。市のほうでも対策を立てているらしいが、なにしろ予算の関係もあって新学期には間に合わなかった。与えられた条件の中で最善の努力をするのが私たち教師の仕事ですな。ま、頑張ってくださいね。いい経験になるでしょう」  判で押したように同じ答が返って来るばかりだった。  スズエ先生は夜も眠れない。考えれば考えるほど自信がなくなってしまう。  ——なんとかもう少し人数の少ないクラス編成ができないものか——  そのことばかりが頭にこびりついて離れない。  やがて入学式がやって来て、クラスに集まる顔、顔、顔。騒ぐのやら泣くのやらオシッコをもらすのやら……ああ、とてもやりきれない。  この日の授業では通学のときの諸注意を与えることになっていた。  教室の窓から見える国道をダンプカーが猛スピードで走って行く。学校は周囲をすっかり自動車道に囲まれている……。スズエ先生はポンとひざを打って生徒たちに告げた。  明日からはきっとクラスの人数も少なくなるだろう。 「みなさん。信号は赤のときに渡りましょうね」  あやしい鏡  母さんはなにも言わなかった。ただ、 「年子」  と、小さく叫んで息を引き取っただけだった。  だけど、最期のまなざしは、はっきりと、 �あの男に復讐をして�  と、告げていた。  少なくとも年子はそう感じ取った。  ちがっただろうか?  たとえ年子の判断がまちがっていたとしても、伊田大助は殺されてもしかたのないやつだ。年子がそう考えたとしても当然のことではあるまいか。  ずっと昔、母さんは伊田が経営する会社の事務員だった。世間のことなどなにも知らない、うぶな娘だった。  ある日、伊田に呼び出され、力ずくで犯された。そのときから母さんの人生が大きく狂った。  世間知らずの母さんは、愚かにも伊田に愛されたのだと信じた。いったん体の関係ができてしまった以上、母さんはその男につくすのが女の道だと考えるような、そんな古風な娘だった。  それをいいことにして伊田は母さんをもてあそび、さんざん利用した。姉《ねえ》さんが生まれたときですら伊田は母娘《おやこ》に愛情のひとかけらさえ注いではくれなかった……。  いっときは母さんも伊田と別れて、ほかの男と幸福な生活を送ろうと考えたことがあったらしい。だが、 「別れてほしい」  と、伊田に告げに行くと、伊田は急に母さんが惜しくなってしまった。その場でまた母さんを犯した。そして、その痴態を写真にまでとって相手の男に送りつけた。 「勝手なまねはさせない。オレから逃げられるものなら逃げてみろ」  母さんはどんな気持ちでその言葉を聞いていたのかしら。  間もなく年子が生まれたが、伊田の仕打ちは少しも変わらなかった。自分はたっぷりとお金を持っているくせに、母さんや娘たちがどんなに苦しい生活を続けていても、かえりみようとしなかった。  思い返してみても、幼い日の生活はみじめだった。食べるだけで精いっぱい。玩具はおろか、学用品さえろくに買ってはもらえなかった。いつもじめじめした暗いアパートに住んで�父なし子�とさげすまれて生きて来た。  それだけならまだ許せる。  姉さんが年ごろになると、伊田は姉さんにまで魔手を伸ばした。実の父娘だというのに……。なんたる破廉恥《はれんち》。  姉さんはその夜のうちに首をくくって死んだ。  母さんはそれを知って、年子を連れて心中を計った。電車の響き。死にそこなった母と娘……。  ——あのまま死んだほうがしあわせだったのかもしれない——  やがて母さんは病魔に見舞われ、悲しみばかりの一生を閉じた。うわごとの中で自分を不幸におとしいれた男を呪いながら……。  母の死後、小さな鍵が二つ小引出しの底から現れた。  年子はその鍵にかすかな記憶がある。伊田の別荘の門の鍵、書斎に続くドアの鍵……。  母さんは呼び出されて、ひそかに夜伽《よとぎ》に行った時期もあったのだろう。年子も母に連れられて何度か伊田の別荘へは行ったことがあった……。  その鍵を見たとき、年子の心の中に今日にまで続く計画が芽生えた。  ある夜、伊田の別荘へ続く門にそっと鍵をさしこんでみた。鍵はすっくと滑らかに飲みこまれた。 「今でもこの鍵は使えるわ」  計画はさらに大きく育った。  伊田大助のいびきが聞こえる。  年子は押入れの中に身を忍ばせている。  ほんの半時ほど前に伊田は帰って来て郵便物に目を通し、ベッドに寝転がった。酔っているらしかった。  すぐに眠りがやって来たらしい。  計画に抜かりはなかった。三年もかけて立てた計画だもの、抜かりのあろうはずがないわ。  やがて明日になれば警察の捜査が始まるだろう。年子も一応は疑われるかもしれない。なにしろ伊田を殺害するだけの動機は充分に持っているのだから……。  だが、年子がこんな重宝な鍵を持っているとだれが考えるだろうか。いや、なにか忍びこむ手段があったとしても、年子には今夜絶対のアリバイがある。  年子はいま、伊豆高原の山中深い宿に泊まっていることになっている。夜になれば交通の便が途絶え、車でも利用しなければとても町には出られない。タクシーなんか帳場に頼んでわざわざ呼んでもらわない限りとても通るところではない。  年子はこの日に備えてひそかに車の運転を習った。だれも年子が運転できると思ってはいない。免許証の名義だって他人のものだ。  海外旅行へ出た友人の車をこっそり盗み出して借用した。伊豆高原の草原の中に隠しておいて、夜になってそれを走らせた。  車も持たなければ運転もできないはずの年子が、この夜、伊田の別荘に来ることは不可能なのだ。  伊田を恨んでいる人は大勢いるだろう。年子が疑われる可能性は極度に少なかった。  ——よし、今だわ——  いびきを計りながら押入れを出た。  体が震える。  だが、どうしてもやらなければいけない。  長いあいだ今日の日を待っていたのだ。母さんのため。姉さんのため……。  それからの行動は、どこかテレビ・ドラマの画像に似ていた。自分のやったことでありながら、とても自分でやったこととは信じられない。  伊田はぐっすりと眠っていた。  ナイト・ランプが醜悪な顔を映し出している。  用意の紐を首に巻いた。  いびきが止まったけれど、まだ眠り続けているわ。  紐の一端を固定し、もう一方の端を、 「えいっ!」  力いっぱい引いた。  伊田は一瞬目をあけた。  そして、年子の顔を見た。驚愕が憤怒に変わるのが見えたが、声はもう出すことができなかった。  年子はいさいかまわず紐を引き続けた。  伊田の顔は赤黒く染まり、口をいびつに開いたまま息が絶えた。 「これでいい」  全身の震えがさらに激しくなった。興奮と疲労が体を駈けぬける。  ——急がなくちゃあ——  そう思ったとき、急に昔見たガラスの馬の置き物を思い出したのは、どうした連想だったのかしら。  それは母さんの大好きな置き物……。年子もいつかこの家の床の間でそれを見て、忘れられないものとなっていた。  ガラスの馬には翼があった。  いつかあの馬に乗って、母さんも姉さんも年子自身も幸福の園へ旅立って行くのだと空想していた。  ——あれ、今でもあるのかしら——  ベッドサイドの棚には見当たらない。  ——たしか隣の部屋に骨董品がしまってあったんだわ——  その部屋のドアは鍵がかかっていたが、ベッドサイドの小箱から鍵の束を見つけ出し、鍵穴にあわせてみると、うまいぐあいに合鍵が見つかった。  かすかな黴《かび》の匂い。  部屋の中には書画やら壺やら絨毯《じゆうたん》やらが乱雑に置いてある。ガラスの馬は見つからない。  ——つまらないもの、持って帰らないほうがいいんだわ——  そう気づいたとき、部屋の一番奥に布を垂らした鏡が立ててあるのが目にとまった。  ——あの鏡が——  ブルッと大きく身震いをしたのは、遠い日の奇妙な記憶のせいだったのか、それともたった今犯した事件の恐ろしさのせいだったろうか。  年子は小学校の二年生か三年生だったろう。あのときはどういう用件で伊田の別荘へ行ったのか思い出せない。  居間に鏡がひとつ立てかけてあった。暗い鏡で、縁にはなにやら無気味な怪物が彫りこんであった。  伊田のすぐそばに、片腕のない老人が肩をまるめてすわっていた。 「なんだ。来たのか。ちょっと見て行け。一生に一度見られるかどうかという、すごい見せ物だ」  と伊田は横柄な口調で母さんに言った。  幼い年子には、くわしいことはなにもわからない。  ただ、おぼろげな記憶をたどってみると——伊田はインドの妖術師から不思議な鏡を手に入れた。人を殺したことのある人間がその前に立つと、背後にその殺された人間の影が現れるというのだ。  そんな馬鹿なこと——と、子ども心にも思ったが、大人たちは信じているふうだった。鏡の印象もひどく無気味で、もしかしたらそんなことがあるかもしれないと、そう思わせるに充分だった。 「しかし、人殺しをしたことのある人間なんか、そうめったにいるものじゃないからな。なかなか実験ができない。この男は戦争中にだいぶはでなことをやったそうだから、ちょっと試しに立ってもらおうと思って……」  伊田にうながされて片腕のない男は、しぶしぶと、少しおびえるようにして鏡の前に立った。  それからの光景は、夢で見たことなのか、本当にあったことだったのか……。  男が鏡の前に立つと、しばらくはなんの変化もなかったが、突然ふっと背後に霧のようなものが現れ、いくつかの顔が——血に染まった顔がサッと映り、次の瞬間に消えた。 「おい、見たか。たしかになにか映ったな」  伊田はうろたえながら周囲の者に同意を求めた。年子はこっくりと頷いた。  男の顔はまっ青だった。伊田の顔からも血の色がうせていた。母さんも茫然として立ちつくしていた。  伊田がもう一度うながしても男はけっして鏡の前に立とうとしなかった。  そのかたくなな様子から察しても、片腕の男はたしかに鏡の中に死者たちの顔を見たのだろう。自分が殺した男たちを見たのだろう。  ——あのときの鏡だわ——  年子は骨董品を置いた部屋の奥へと進んだ。  覆いを動かすと奇っ怪な模様にも記憶があった。  ——人を殺した人がこの前に立つと、本当になにか現れるのかしら——  信じがたいことだが、あのときはたしかに不思議な顔が映ったではないか。  ——私もたった今、人を殺した——  だとすれば、この前に立つと伊田の顔が現れるかもしれない。  もうガラスの馬どころではなかった。昔見た幻影が——あのイメージが、はたして本当の記憶なのか、夢だったのか、それを確かめてみたいという願望が、とてもあらがいがたいほど激しく胸にこみあげて来た。  年子は覆いの布を払った。  鏡の中は相変わらず暗い。  まっすぐの姿勢をとって、その前に立った……。  一秒、二秒、三秒……十秒、二十秒。  待てどくらせどなんの変化も現れない。  どう目を凝らして自分の背後をうかがってみても霧のようなものは見えない。  当然のことだ。  鏡の中に死んだ人の影が現れるなんて、だれが考えてもありえないことだ。われながら本気で試してみたのがおかしい。やはり冷静な心を失っているらしいわ。 「さあ、急がなくちゃあ」  手袋をはめていたから指紋を残したはずはない。侵入口のドアは細くあけたままにしておこう。そのほうがきっと犯人を絞りにくいだろう。  年子は足音も立てずに書斎を出た。裏庭を通り、門を抜けて外に出た。  それから小走りに、車を隠しておいたところまで……。 「母さん、復讐はしましたよ。姉さん、あの男を殺したわ」  車のフロント・ガラスに伊田の最期の表情が映ったが、罪の意識は少しもない。もともと殺されて仕方のないやつだったのだから。  なにもかも順調だった。計画は一分の狂いもなく実行された。  翌朝、年子は九時過ぎに起きた。  宿の主人が現れて、 「ゆっくり眠れましたか」 「ええ、ぐっすり」 「お帰りは……バスですか」 「いえ、天気がいいから歩いて帰りますわ」 「三時間はかかりますよ」 「ええ、平気。くだり坂だから」  そう主人に告げて宿を出た。  途中で隠しておいた車に乗り、その車にガソリンを補給してそのまま友人の車庫へもどした。  なにひとつとして手ちがいはなかった。今ごろは伊田の別荘で大騒動が起きているだろう。  昨夜のことは、とても現実とは思えない。  年子は小さくハミングをこぼしながらアパートの階段を昇った。  ドアの鍵をあけようとしていると、どこに潜んでいたのか、黒い影が近づき、 「浜野年子さんですね」  と警察手帳を示した。  ——どうして?  こんなに早く警察が来るなんて……。なにがなんだかわからない。初めはただの参考人かと思ったが、そうではない。すでに逮捕状も用意されていた。  ——どこに手落ちがあったのかしら——  年子が事情を知ったのは、取り調べがだいぶ進んでからだった。  後悔が胸を刺す。  あの無気味な鏡のことが心に浮かんだ。昔見た恐ろしい光景が脳裏に映った。あれはまさしく妖術師の鏡だったのかもしれない。 「もっとあの鏡を信ずるべきだったのかしら」  年子は留置所の裸電球の下で独りごちた。  伊田は死んではいなかった。あのあとで息を吹きかえしたらしい……。  未完成交情曲 「待っていらしてね」 「本当に戻って来てくれるんだね」 「ええ……」 「何時ごろ?」 「お座敷が終って着がえをしてから。十二時ごろかしら」 「よし。きっとだぞ」 「ええ」  雪子は山田氏の手を握り、小指をからませてから部屋の外へ消えて行った。甘ったるい残り香が鼻をくすぐる。山田氏は床柱に背をあずけたまま、 「わるくないコだ」  と独りごちた。思わず口もとがほころびてしまう。  雪子というのは本当の名前だろうか。それともお座敷だけのものだろうか。肌はその名の通り雪のように白い。こめかみのあたりにおくれ毛が二、三本ほつれて静脈が青く浮き出している。いやでも全身の白さを連想しないわけにいかない。体の芯がジーンと熱く火照《ほて》った。  山田氏は結婚して五年になるが浮気をするのは今夜が初めてのこと。遊びたい気持ちは充分過ぎるほどあったのだが、女房がこわくてとてもその気になれなかった。  世話する人があって社長の姪と結婚したのが身の不運。この細君がひどいやきもちやきで、山田氏が隣の奥さんと言葉をかわしただけで眼尻がピクピクと痙攣《けいれん》してヒステリィの発作が始まる。ポケットからクラブのマッチが出てきたときなんか、なんらやましいところもないのにギュウギュウ詰問され、離婚をするのしないのと大騒ぎが起きたほどだ。財布のひもをしっかりと握りしめ、山田氏の行動を逐一調査をしては、あれこれ干渉する。  だから結婚一年ですっかり嫌気がさしてしまい、浮気の虫がムズムズと首をもちあげた。だが弱気な山田氏にはどうしてもそれを決行する勇気が湧かなかった。  それというのも山田氏には困った癖がある。寝言を言うのである。どこかで浮気をしたら、その女の名前をきっと夢の中で叫んでしまうだろう。それを聞いたら、あの嫉妬深い女房がただですましてくれるはずがない。さりとて寝言は無意識で言うことだから抑制する方法もない。  しかし人生なにごとも窮すれば通ずのたとえ通り、ある日ポンとうまい考えが浮かんだ。 「そうだ。女房と同じ名前の女と浮気をすればいいんだ」  細君の名は由紀子である。こんな名前ならば、ちょっとこまめに捜して歩けばどこにでも同じ名があるだろう。浮気のあとで夢を見て、 「ユキコ、ユキコ、ああ、この白い肌」  そう叫んだとしても、これならば疑われるはずがない。いや、待てよ。猜疑心の強い女のことだから、 「なによ。私、色なんか白くないわよ」  くらいのことは言うかもしれないが、それだって、 「いや、夢の中でキミの肌がものすごく白く見えたんだから」  と反論すればそれまでのことだ。とにかく�ユキコさん�さえ見つければそれでよろしい。  折しもめぐって来たのが出張の機会。日程をきりつめへそくりを握ってやって来たのがこの温泉郷。番頭にチップをはずんで頼んでみると、果せるかな雪子という名の芸者がいて、話はトントンとまとまった。雪子さんは器量よし。性格も穏和で、すれたところが少しもない。二人で酒を汲みかわし、あとは彼女の仕事が終わるのを待って自由恋愛の運び……。  もし女房の由紀子がこれを知ったらどんなに怒り狂うことか、それを思うと山田氏はひどく滅入ってしまうのだが、もう賽《さい》は投げられたのだ。できるだけそのことは考えないようにして残りの酒を傾け雪子の到来を待つことにした。  まだ夜半までにはしばらく時間があった。それまでのひととき、ちょっと体を休めておこうと思い、布団の上にゴロリと寝転がった山田氏、そのうちにウトウトと眠ってしまった。  何時間たったのだろうか? 山田氏は眼をさまし隣に手を滑らせてみた。手には冷たいシーツの感触が伝わるばかり……あわてて腕時計を見ると午前四時をまわっている。 「しまった!」  と思ったがもう遅い。  ひどいじゃないか。揺り起こしてくれればいいものを……。いや、そうじゃあないんだ。調子のいいことを言ってたが初めから来る気はなかったんだ。千載一遇のチャンスだったのに。ああ、なんていうことだ。  怒りとくやしさでまんじりともせず夜を明かした山田氏は、早々に床を抜け出して番頭を捜した。 「番頭さん。ひどいじゃないか。昨日の芸者さん、あとできっと遊びに来るって約束したのに……」  すると番頭が、 「お客さんこそ……。雪ちゃんが怒ってましたよ」 「…………」 「十二時過ぎにお客さんのお部屋へ行ったとたん�ユキコ、おまえなんかに用はない。帰れ。いい気になるな、このスベタ�って、いきなり怒鳴られたって」  山田氏は想い出した。昨夜妻の�由紀子�に毒づいている夢を見たことを……。  眼美人  ひとめ惚れを信じますか。  ひとめ惚れは、程度の低い、少し軽薄な趣味のように思われているけれど、そんなことはない。  長い経験を積んだ料理人は、材料をひとめ見ただけで新しいか古いか、おいしいかまずいか、ちゃんとわかるんだ。  ひとめ惚れだって同じことさ。  会った瞬間に、  ——いやだな——  と思った女が、交際しているうちにだんだんよくなるなんて、めったにあることじゃない。あるとすれば、それはそもそも�自分がどんなタイプの人が好きか�はっきりと自覚していない証拠なんだ。むしろひとめ惚れができないほうが、思慮のたりない証拠なんじゃあるまいか。  オレの場合はひとめ見ただけでピンと来る。  気分のあう女なら、会ったとたんに電気にでも触れたみたいに頭の中にビリッと走るものがある。  ——ああ、この人はすばらしい——  そう考えた人はきっとすばらしい。いつもそうだった。はずれたことは、ただの一度もない。  自慢ついでにもう一つ言わせてもらえば、相手がオレを気に入るかどうか、それだってすぐにわかる。  ふたりの眼と眼のあいだに、なにかしら光のようなものが交錯するんだ。  ——うん、わるくない女だな。おや? 彼女もオレに関心があるらしいぞ——  これでOK。あとは、 「お茶でも飲みませんか」  そう誘えば、それで万事スムースに運ぶ。失敗はけっしてありえない、簡単なものさ。  三三子《みさこ》と会ったときもそうだった。  青山通りから墓地のほうへと入った通りの喫茶店。店の名は�サビーヌ�。フランス語で不思議な妖精のことらしい。内装が美しいのと、コーヒーがおいしいのとで、オレが気に入っている店。三日に一度は散歩の途中で立ち寄る。  オレの仕事は商業デザイナー。二十七歳。住居は青山の2LDKマンション。一室は仕事場に当てている。  仕事は結構いそがしいが、サラリーマンとちがって時間を自由に使えるのがうれしい。  たいていは十時頃に起き、顔を洗い、新聞を眺め、それからフラリと散歩に出る。気分が向けば�サビーヌ�に足を運ぶという寸法だ。  ——不思議な妖精はいないかな——  などと夢想しながら……。  この店のトーストは、うまい。  パンとバターとをべつべつに出して、お客にバターをぬらせる店があるけれど、あんなのは下の下だね。パンがさめていたりしたら、さらに下の下の下。もう二度とそんな店には行かない。�サビーヌ�のトーストは、キッチンでパンにバターをたっぷりとぬり、その上でトースターにかける。作っているところを見たわけではないけれど、そうにきまっている。バターが焼けて黄色味を帯び、ふっくらとしたパンの中にしみこむ。押せばジュッとバターが滲み出るほどだ。トーストはこうでなければいけない。  ああ、そう、そう、話は三三子のことだった。  春爛漫《らんまん》。風も甘やかでとてもうららかな日。桜もちらほらと咲き始めていた。  喫茶店の窓越しに鮮やかな緑の色が見えた。エメラルド・グリーン。夏の日の海の色。パレットに絵具をしぼり出したような鮮明な色だった。  ——なんだろう——  早くもこの瞬間から心の引かれるものがあった。緑色の光がオレの眼を目がけて誘いかけるように飛んで来る。  ドアを押した。  窓際にすわっている女が顔をあげた。鮮やかな色彩は女のかぶっている帽子の色だった。  ひさしの大きい帽子を目深《まぶ》かにかぶり、その影が顔を隠しているので、細かい表情までは見にくかったが、  ——美しい人だなあ——  と思った。  店にはほかに客もない。  オレは胸を弾《はず》ませて、女の様子がしっかりと見える位置にすわった。  女はテーブルの上に右腕を載せ、軽く頬杖をつきながら小首を傾げて窓の外を眺めている。優美な絵画のように……。  鼻の形が美しい。  睫毛《まつげ》が長い。  ひょいとこちらを向いたとき、豪華な花が咲くようにぽっかりと美しい表情が表われた。  ——わるくない……いや、とてもいい——  グリーンに茶をあしらったスーツ。そのグリーンの色が帽子の色とよく調和している。服装のセンスも配色のセンスもわるくない。  ——なにをしているのかな——  年齢は二十四、五歳かな。  だれかを待っているようでもない。小指をちょっと立てるようにしてコーヒーを飲む仕ぐさがかわいらしい。  ドキンと胸が鳴る。  ——これは本物かもしれないぞ——  オレもぼつぼつ結婚を考えていい年ごろだ。今年あたりどこかでとてつもなくすてきな相手とめぐりあうのではあるまいか。そう思っている矢先だった。  見れば見るほどオレの好みにあっている。  考えてみれば、今日は朝からわけもなく心が浮き立っていた。なにかよいことが起こりそうな気配が周囲に漂っていた。  ——なるほど、これだったのか——  納得が胸に広がる。  女が気配を感じて視線を伸ばした。パチンと眼があった。  ——あら——  女の表情の中に、なにか戸惑うような様子が映った。小さな驚きのように……。  女は思っているのだ。  ——この人だれかしら。変だわ。まるで見えない糸で引きずられているみたい——  女の胸の中にさざ波が立ち始めたらしい。  そのことは、それからの動作にはっきりと現れている。  コーヒーを飲む仕ぐさがどことなくぎごちなくなった。かすかに頬が上気している。そして時折オレのほうへ視線をチカッと走らせる。それにしても美しい眼だな。鼻も唇もわるくないが、とりわけ眼の表情がきれいだ。眼美人、眼千両……。  十数分の時間が一時間にも二時間にも感じられた。いや、そうではない。十数分の時間がほんの一瞬のように感じられた。それとも違うな。時間そのものがどこかへ飛んで行ってしまったようだった。  オレはおもむろに立ちあがった。 「どなたかお待ちですか」 「いいえ」  女は目顔で自分の前の席があいていることを告げている。  オレは自然な動作でそこへ腰をおろした。 「すっかり春らしくなりましたね」 「ええ……」 「桜が咲き始めたんじゃないのかな」 「そうみたい」  なんの違和感もない。オレたちは初めからこうなるように決められていたらしい。 「ちょっと散歩してみませんか」 「はい」  ウェイトレスがあっけにとられているうちに、オレたちは肩を並べて�サビーヌ�を出た。  二度目に会ったのは銀座の喫茶店。  青山で桜を見たあと、オレが、 「おいしいものでも食べませんか。そう、明後日の夜くらい……」  と誘ったのだった。  女は恥ずかしそうに頷いた。  心の中では誘いを待っていたのだが、女としては多少の恥ずかしさくらい示さなければ恰好がつかない。 「フランス料理なんか……」 「とても好きです」  デートの約束ができたあと、女はフッとため息をつき、真実うれしそうだった。 「お待ちになりました?」  女は赤と青と白と、三色の筋を木の梢のように交錯させたワンピースを着ている。頭には薄青いターバンのような帽子をつけている。今夜の衣裳もわるくない。 「じゃあ行きますか」 「ええ……」  レストランに行って、豪華な夕食をとり、映画を見た。彼女の名前を聞いたのは、このときだったろう。 「三三子って言うの」 「どんな字?」 「三をふたつ並べて……」 「めずらしいね」 「父も母も三という数が好きだったの。私も好き。運命的なものを感ずるの」  初めてあったのは三のつく日だったろうか。 「お仕事は?」  恋の相手について一通りの情報を得なくては交際は進みにくい。 「なにもしていませんの」 「じゃあご両親と一緒に?」 「いえ、両親はいません」 「へーえ、僕もそうだ。じゃあマンションかなんかで……一人で?」 「そう。気楽な貧乏暮らし」  口ぶりから察して親の残してくれた財産でもあるらしい。�貧乏暮らし�というのは、彼女の服装などから判断して嘘だろう。 「このあいだ�サビーヌ�に来てたのは……?」 「ああ。あそこに両親の墓があるものですから」 「なるほど」  墓参りの帰り道にちょっと喫茶店に立ち寄ったのか。 「お住まいは?」 「目黒です」  家まで送る道すがら車の中で手を握った。  肩と肩が触れ、もう次には唇が重なっていた。 「この次、いつ会いましょうか」 「いつでも」 「では明日」 「いいわよ」  口調がすっかりくつろいでいる。  それからはもうトントン拍子だった。よほどオレのほうにいそがしい仕事がない限り毎日のように顔を合わせた。  オレの目に狂いはなかったね。  会えば会うほど好きになる。愛らしさが増して来る。 「好きだよ」 「私も……」  恋は信じられないほどの速度で進んだ。  ためらうことなどあるものか。ひとめ惚れこそ恋の真髄だ。長く迷ったからと言ってよい結果にめぐまれるものではあるまい。  うれしいことに三三子もまたひとめ惚れの信奉者だった。 「青山の�サビーヌ�で会ったときから、こうなると信じていたわ」 「オレもそうだよ」 「不思議ねえ、一ヵ月前まで見ず知らずの人だったのに」 「愛の深さは時間の長さでは計れないさ」 「ホント。後悔していません?」 「するわけがないだろ。三三子は幸福かい?」 「ええ、とっても」  とろけるような甘い台詞《せりふ》も、オレたちには少しも不自然ではなかった。もっともっと甘い言葉でなければオレたちの気持ちを表せないとさえ思った。  一ヵ月後、当然の成行きとしてオレは結婚を申し込んだ。 「三三子、結婚してほしい」  いびつな月が空にかかっている夜だった。かすかな光の中で三三子の表情が震えている。彼女もその言葉を待っていたのだろう。涙がこぼれるのを必死にこらえていたのかもしれない。 「私にはだれも身寄りがいないの」 「そんなことかまうものか。ふたりが愛しあっていれば恐れるものなんかありやしない。いいね」 「はい、一生かわいがってください」 「わかった」  帽子の羽根が三三子の心の高ぶりを伝えるようにかすかに揺れていた。  オレたちはそのまま路傍《ろぼう》で抱きあって長い、長いキスを交わした。だれかが背後を通り過ぎてもそのまま堅く体を寄せあっていた。  結婚のその日まで体を交えたりしなかった。  もとよりオレにその欲望がなかったわけではない。五体健全な男だからね。だが心の満たされている者にとって、肉の欲望などけっして我慢のできないものではない。  三三子にはどこか古風なところがあって、結婚のその日まで清い体でいたいと願っているふしが感じられた。  三三子がそう思うのなら、なにもあせることもあるまい。おいしいご馳走はあとで食べてこそ感激も深かろう。  結婚式は三三子の希望もあって教会で、ほんの少数の参列者を招いて簡素に催した。 「病めるときも健やかなときも、なんじ、これを愛し、死がふたりを分かつまで堅く貞節を守ると誓いますか」  牧師の声がおごそかに響く。 「誓います」  三三子もまた同じ問いかけに対して、 「お誓いします」  と、きっぱりと言う。  表情は白いベールの下に隠れて見えない。ふたつの眼だけが宝石のように美しく輝いている。  ——とうとうやったぞ。最良の妻を手に入れたんだ——  実感がしみじみと込みあげて来る。  まったくオレは幸福な男だぜ。これほどすばらしい相手にめぐりあえるなんて、よほど前世でよいことをしたらしい。 「やるぞ」  思わず武者ぶるいが湧いて来る。 「すごいのね」  三三子も頼もしそうに目を細めて、オレの肩に寄りそう。  披露宴は省略。ホテルにみすみす儲けさせるような馬鹿騒ぎはオレの趣味にあわない。  オレたちはその日のうちに北海道へ旅立った。  三三子は薄青のスーツに同じ色の帽子。トルコ帽のようなデザインで、ちょっと目深かにかぶった姿がとても愛らしい。 「帽子が好きなんだなあ」  思い返してみると、三三子はいつも帽子をかぶっていた。 「きらい?」 「いや、そんなこともないが……まるで新婚旅行そのものみたいだな」  まったくの話、女は新婚旅行となると、きまって帽子をかぶる。まあ、三三子の場合はそれがいつもの習慣なのだから、仕方がないけれど……。 「だって今日は新婚旅行なんですもン」  と、口を尖らせる。 「いいよ、よく似合う」 「ホント? うれしいわ」  初めての夜は札幌のホテル。  北国の町を散策したあとでオレたちは部屋へ帰った。  先にバスを使ったのは三三子だった。  オレがバス・ルームから顔を出すと、部屋の電灯が消えてまっ暗になっている。 「三三子」 「…………」  妻は答えない。  気配を頼りにベッドに入った。 「いつまでも愛してくださる?」 「もちろんだ」 「けっして捨てたりしない?」 「きまっているだろう」 「約束して」 「約束するさ」  オレは三三子を抱き寄せ、丁寧に衣裳をはいだ。やわらかい肌が熱くたぎって震えている。 「愛しているよ」 「うれしい」  やさしい抱擁のあとで体を割った。  三三子は小さく声をあげたように思う。オレは無我夢中だった。細かい動作をつまびらかに思い出すことはできない。ただ心の中で、  ——三三子はオレのものだ。一生オレのものだ——  と叫び続けていた。  愛の儀式はとどこおりなく終わり、安らぎのひとときがやって来る。  オレは手を伸ばして灯をつけた。 「恥ずかしいわ」  なんと美しい面差しだろう。すっきりと伸びた鼻。完全な形の唇、とりわけ大きな眼の美しさと言ったら……。  だが……驚いたことに、三三子はベッドの中でナイト・キャップをかぶっていた。愛撫のさなかにはわからなかったけど。全身は裸だというのに、帽子ばかりはかたくなにかぶっている女……。なぜかな?  三三子もオレの視線に気づいた。 「おかしい?」 「おかしい」 「でも、いいでしょ」 「うん、まあ……」  思い返してみると、オレは三三子が帽子をかぶっていない姿を一度も見たことがなかった。 「なんにも身につけていない君の姿をオレは見たいんだ」 「もうすっかり見たじゃない」 「帽子が残っている」 「…………」 「唇も鼻もみんなすてきだけれど、とくに眼が美しい。いつまで見ていても見あきないよ。でも帽子があるおかげで、君の美しい顔をすっかり見れないからね。さ、なにもかも取って、生まれたまんまの姿を見せてくれ」 「そんなに私の眼が好き」 「うん。大好きだ」  だが、三三子は大きな眼を見開いたままためらっている。 「君の美しい姿をしっかり眼の奥に焼きつけておきたい。ふたつの目でしっかりと見ておきたいんだ。本当のことを言えば君はふたつの目で見るだけじゃもったいないくらい美しい」  われながらヘンテコなものの言いかたをしたものだ。  三三子の顔が奇妙に揺れた。 「本当に?」 「ああ、本当だ」  ふたつの眼がさらに大きく光った。 「私もそうなの」  三三子がそう呟くのと、オレが手を伸ばして三三子のナイト・キャップを奪うのとがほとんど同時だった。三三子のすばらしい眼。なによりも美しい宝石のような眼。 「満足してくださる?」  帽子を取ると、その下に、もうひとつ同じように美しい眼がパッチリ見開いて、悲しそうにオレを見つめていた。  新築祝い  デパートの家具売り場で、女店員の顔を見たとたん、ヤマダ氏は、  ——あ、タナカ先生に似ている——  と思った。驚きのあまり持っていた鞄を落としてしまうところだった。  長い顔。ギョロリと光る眼。三十四、五歳。  だが、ゆっくり考えてみれば、タナカ先生が昔と同じ年齢でいるはずもない。タナカ先生に習ったのは、二十年も昔のことなのだから。いわゆる�他人のそら似�というやつだろう。 「なにをお捜しですか」 「職場の上役が家を新築したものですから、なにかちょっとしたものを贈ろうかと思って」  ヤマダ氏は入社以来ずっとサトウ課長の下で働いている。あまりそりのあうほうではない。サトウ課長は、敏腕にはちがいないが、部下たちの評判はあまりよくなかった。部下の手柄はみんな自分の手柄にしてしまう。そのくせ自分の失敗はみんな部下のせいにする。部下にとっては、一番好ましからざる性格の持ち主だ。  ——会社の幹部はそんなことがわからないのだろうか——  と、ヤマダ氏は訝《いぶか》しく思うのだが、サトウ課長はトントン拍子で出世し続けている。今度の家もなかなか豪華なものらしい。 「ご予算はどのくらいでしょうか?」 「まあ、一万円くらい。簡単なもので、なにか本当に役に立つようなものを」 「そうでございますか。実用品のほうがおよろしいんでしょうね」  女店員は声までタナカ先生に似ている。  中学一年生になったときだった。主任は顔の長い女の先生。国語の教官だった。  新学期が始まって間もなく、ひとりひとり、なにかお話をするように命じられた。ヤマダ氏は雑誌で読んだ�馬の話�を語った。語り終るとタナカ先生が、 「それは、どういう意味なのですか」  と尋ねる。ヤマダ少年は真顔で、もう一度お話の要点を語った。  タナカ先生のあだなが�馬�だと知ったのは、ずっと後のことだ。  中学を卒業するまでタナカ先生には睨まれていたような気がする。 「これなどいかがでしょうか」  女店員は相変らずタナカ先生とそっくりな声で言って、美しいデザインの踏み台を選び出した。 「うん?」 「新築の家ではわりと便利なものでございますのよ」  なるほど、そうかもしれない。主だった家具はそろえても踏み台までは頭がまわるまい。部下は部下らしく。こんなさりげない品物を贈ったほうが、かえって喜ばれるのではあるまいか。 「じゃあ、これをください」 「お届けいたしますか」 「お願いします」  ヤマダ氏は課長の住所を記して売り場を離れた。 「ありがとうございます」  背中に女店員の声が響く。  国語はけっしてきらいな学科ではなかった。小学校ではよく�5�をもらったくらいだ。ところがタナカ先生は、けっしてよい成績をつけてくれなかった。どんなに試験でよい点を取っても成績は�3�どまりだった。  思い返してもくやしい。  ——やっぱり馬の話がいけなかったんだなあ——  相手は女の先生だ。当人が長い顔を気にかけているその目の前で、しゃあしゃあと馬の話をしたのだから、むこうは、  ——いやな子どもだ——  と思ったにちがいない。先生のあだなを知ったあとで、「誤解です」と叫びたかったが、そう釈明するチャンスもなかった。  ——ついていなかったなあ——  人生にはときどきあんなことがあるのだろう。  サトウ課長にも、そうよくは思われていまい。きらわれないように努力しているつもりだが、根があまり好きなタイプではないから、むこうもそれに気づいているのではあるまいか。�けっして悪感情を抱いていません�と、言わば忠誠心の一端として新築祝いを贈ったのだが、うまく心が通じるか、どうか。実用品の贈り物は、なんとなくサトウ家で愛用されそうな気がして、心がなごんだ。  二日後、贈り物がサトウ家に届いた。サトウ夫人は、 「まあ、便利なものを」  と、喜んだが、課長は眉をしかめた。  ——あの野郎、�部下を踏み台にするな�って、謎をかけやがったな。いやなやつだ——  人生には、同じようなことが二度起こる場合もあるらしい。  幽霊をつかまえろ  僕等はいつものバーで酒を飲んでいた。ニシ君とキタ君と、そして僕。 「じゃあ、その幽霊をつかまえてみようじゃないか」  そう言い出したのは、たしかニシ君だったろう。 「大丈夫かなあ。そんなことして」 「お前も科学者の端くれだろ。本当に幽霊が出るものなら、つかまえるくらいの度胸がなくちゃあ」 「うん。やってみようか」  こうして相談が始まった。  キタ君は建築屋さん。古いお屋敷の取りこわし工事をゆだねられていて、その奥座敷に少女の幽霊が出没するというのだ。  そのお屋敷はキタ君の知人の家なので、彼自身、以前にその幽霊を目撃したことがあるらしい。そのときは�奇妙だな�と思っただけだったが、解体工事をするにあたって噂を集めてみると、ほかにも見た人が何人かいる。キタ君は自分で見たことがあるだけに、魔物の存在を疑わなかった。 「もう少しくわしく話してみろ」 「因縁話めいたものは、なにもわからない。先月ばあさんがなくなって、あそこの一族はみんな死に絶えてしまったからね」 「ああ」 「とにかくここ十数年、人がほとんど出入りしたことのない奥座敷なんだ。そこに出るんだな、幽霊が……。床の間の前にただぼんやりとすわっているだけ。声をかけるとすぐに消えてしまう。オレが窓越しに見たときもそうだった」  僕等は三人とも大学で理科を学んだエンジニア。幽霊なんかあまり信ずるほうではないけれど、キタ君がはっきりと眼で見たものならきっと実在するにちがいない。 「若い娘なんだって?」 「娘って言ったって少女だよ。長い髪を垂らして、白い着物を着て……。この世にどんな未練があるのか知らんけど、出る日時はいつも決まっている。十月三日の午後十時ごろ」 「明日じゃないか」 「うん。オレが見たときもそうだった。ちゃんと日記に書いてある。見たという人の噂を、くわしく尋ねてみると、みんなその日のその時刻だ。なんかこの日に理由があるらしい」 「ほかになにか特徴はないのかい」 「消えたあとにびっしょりと水のあとが残っている」 「へーえ、溺れて死んだ人なのかな」 「そうかもしらん」 「しかし、幽霊をつかまえる方法なんかなにを読めば書いてあるんだ。まさか投網《とあみ》でつかまえるわけにもいくまいし」 「今までにだれもやったことがないんだからな。独創的なアイデアが必要なんじゃないのか」 「うん。うまい方法があるぞ」  ポンと膝を打ったのはキタ君だった。ニシ君を指さして、 「お前のところでできないか」 「なにが?」 「冷凍の専門家じゃないか。その幽霊は濡れているんだろ。瞬間的に凍らせてしまえば身動きができなくなるんじゃないのか」  冷凍技師のニシ君は一、二分考えていたが、首を振った。 「むずかしい。姿を見せている時間はとても短いんだ。理論的にはできないこともないけれど、あの古い部屋にそれだけの条件を作るのはむずかしい。第一、明日の十時までじゃあ時間のゆとりがないし、金もかかりすぎる」 「なるほど」  僕等はむっつりと押し黙って考えた。 「よし、これはどうだ」  エンジニアは困難に直面すればするほどすばらしいアイデアが浮かんで来る。 「お前のところで開発した新しい接着剤、あれを使えばいいじゃないか」  おはちは僕のほうにまわって来た。 「ペタリコンのことかい?」 「そう。なんだってくっつくんだろ」 「もちろん」 「幽霊だってくっつくんじゃないのか」 「うーん、そこまではわからんけど……わるくないかもしれん」  僕はとっさに新製品ぺタリコンG剤を思い浮かべた。こいつは水中の土木工事などで使えるよう水気にあうととたんに粘着力を増すというシロモノだ。 「そいつはいい。幽霊のすわる位置はきまっているんだろ。そこにすわると水気がじっとりと垂れる。ペタリコンGが効力を発揮する。ドンピシャリじゃないか」  衆議は一決した。  準備には少しもむずかしいことはなかった。  僕は研究室の倉庫からぺタリコンGを一壜取り出して現場へ急いだ。すでにニシ君もキタ君も来ていた。  今までだれもやったことのない実験が始まる……。僕たちの胸は興奮で震えていた。  十時五分前、床の間の前の——いつも幽霊が現われる地点にペタリコンGをぬった。  わが社が自信を持って売り出す新製品。どんなものでも接着してしまうペタリコンG。幽霊だってくっつけずにおくものか。  僕たちは窓の外に立って幽霊の出現を待った。  腕時計が十時をまわった。 「おい……」  そうささやいたのはだれだったか。  床の間の前に白い靄《もや》が浮かび、それがみるみる人間の形を作った。白い着物。青い表情……。  長い髪の少女が悄然とすわっている。 「出た……」  声が震えた。  幽霊は小さく首を曲げて声の方向を見た。そして立ちあがり、消えようとした。  その瞬間、なにが起こったか……。  ビリ、バリッ。着物の裂けるのが見えた。体がちぎれるのが見えた。そして上半身だけが宙に浮き、そのまま薄くなった。  幽霊は意外に強い力で逃げようとしたのだった。だが下半身をペタリコンGがしっかり固定していた。 「…………」  あとには着物のすそと義足とが残っていた。  僕等は大切なことを一つ忘れていたんだ。幽霊には足がないことを……。やけに大きい足のように見えたのがただの模型であったことを。  夏の夜ばなし  むし暑い夜だった。だが、場末のスナック・バーの店内は冷房がききすぎて、寒いほどに冷えていた。  サラリーマンが三人、声高に話している。ついさっきまでは上役の悪口に花が咲いていたが、いつのまにか話題が変ったのは、この冷たさのせいなのだろうか。 「しかし、思い出してもこわい話って、あるもんだよなあ」  そうつぶやいたのは背をまるめて水割りを飲んでいた男だった。 「そうかね」  しゃくれ顔の男が体を揺らしながら言う。 「ああ。オレの田舎は西瓜《すいか》の名産地でさ、線路ぎわの、ものすごくカーブのきついところに西瓜畠があったんだ。そこは昼間でも見通しがわるくて、汽車が走って来るのがよく見えないとこなんだよな」 「昔は危険なとこがいっぱいあったよ」 「そう。で、夏の夜のこと、町で会合があって、オレがひとりで線路の上をプラプラ帰って来たんだ。そのほうが近道だから、村に帰るときはいつもそこを通ったんだ。歌なんか歌いながら……」 「十八番の兄弟仁義かなんか……」  そう半畳を入れたのは、三人の中で一番ハンサムな男だ。身なりもこの男が一番いい。 「どうした加減か、あの夜はまわりの音がよく聞こえなかった。雨が降っていたせいかもしれないけど……なんか気象のせいでそうだったのかもしれない。ちょうど見通しのわるいカーブのところへ来たとたん、目の前に列車が現われた。ビックリなんてもんじゃないよ。オレ、いきなり西瓜畠の中に飛び込んでよけたんだ」 「ああ」 「列車はゴーッてすごい音をあげて遠ざかって行った。�やれ、あぶなかった�土を払いながら起きようとしたら、うまいぐあいに西瓜が一つ転がっている。よし、これを失敬して、みやげに持って帰ろうか。割れている西瓜らしくてベトベトしてんだよな。変だなって思ってよく見たら……列車に飛ばされた人間の首……」 「本当かよ」 「本当だ。驚いたよ」 「そりゃ、だれだって驚くさ」 「昔の田舎は、たしかにこわいところがいっぱいあったよ」 「お化けだってあちこちにいたし……」 「そう、そうなんだよなあ。オレんちの近くに湖があってさ。水はきれいだし、底は深いし、よく身投げなんかがあったんだ。昼はもちろん、夜でもむし暑いと結構泳ぎに行くやつがいたんだよ。親たちは�絶対行っちゃあいかん�て言うんだけど」 「うん」 「夜まっくらな中で泳いでいると水草が一本二本からまって来る。ずいぶん細い草だなあと思ってよく見るとそれがみんな女の髪の毛で……」 「こわいね」  話はつぎつぎに弾む。 「オレが聞いた話だけど、金に困って人殺しをした男がいたんだよな」  しゃくれ顔がさらにあごをしゃくって話しだす。 「うん、うん」  大げさな身ぶりであいづちを打つのは猫背のほうだ。ハンサム氏は、少し気取って含み笑いを見せているだけ。 「さびしい道で、旅の老人を殺して金を奪ったんだ。だれにも見られなかったんでその後無事にくらしていたんだけど、一年近くたって子どもが生まれた」 「それが殺したじいさんそっくりの顔立ちで……」 「いいところを先まわりして言っちゃいけないよ」 「すまん、すまん、わるかった」 「ある夜その赤ん坊がもーれつな勢いで泣くんだな。いくらなだめても泣きやまない。�どうしたのかな�って、つくづく顔を見ると、赤ん坊の顔がじいさんに変っていて、急に大人の声を出した。�去年の今日、去年の今日�思い出してみると、ちょうどその日がじいさんを殺した日だった」 「あんたはなにかこわい話を知らんのかね」  猫背の男が聞き役専門のハンサム氏に尋ねた。ハンサム氏は戸惑うようにタバコの煙を吐き、ちょっと思案していたが、 「うん。あるむし暑い夜のこと、里帰りしていた女房が突然帰って来たんだ。寝るときになってオレのベッドの下をのぞいたら、白いものがフワーッと……」 「うん? 幽霊か」 「いや。よく見ると、それが女房のものじゃないネグリジェ……」  ハンサム氏はちょっと笑って口を閉じた。それで話は終りだった。 「うん。これはこわい。たしかにこわいしばらくはずっとこわい」  しゃくれあごが首をすくめて、 「さて、オレたちもポツポツ女房ドノのもとへ帰るとするか」  美しいお妃様の冒険   ——あるいは美貌の研究——  むかし、むかしの大むかし、その国では人々は石を食べて暮らしておりました。  みなさんは石を食べることができませんね。  人間は長いこと石を食べる習慣を失っていたので、今ではどの石が食べられるのか、どうやって料理するのか、なにもかもすっかり忘れてしまったのです。第一、石を食べても栄養のたしになりません。人間の体がいつのまにかそんなふうに作り変えられてしまったのです。  でも、大むかしの国では、みんなが石をおいしくいただいておりました。 「さあ、みんな、ご飯ですよ」  と、お母さんが台所で呼びますと、むかしの子どもたちも、今の子どもたちと同じように答えたものでした。 「はーい。今晩のおかず、なーに?」 「きょうは赤石の石油いためと岩清水のスープよ。おかずが足りなかったら、お砂のふりかけを食べなさい」  こうして一家|団欒《だんらん》の夕餉《ゆうげ》が始まったのです。おもしろいですね。  さて、この国にたいへん美しい娘がおりました。  この人は生まれ落ちたときから、とてもきれいな女の子でした。  年ごろになると、それまでだれも見たことのないほどの美しい娘になりました。世界中の男たちが噂を聞いて、 「ぜひ私のお嫁さんになってください」  と申し出ました。  何度お断りをしたか数えきれません。でも娘はこの国の王様に結婚を申し込まれたとき、とうとう首をたてに振りました。なにしろこの世に王様ほど偉い人はほかにいないのですから……。こうして美しい娘はお妃様の座に就いたのです。  結婚式の日の美しさと言ったら……世界一の詩人が百万言を尽したところで新しいお妃様のうるわしいお姿を伝えることはできなかったでしょう。一年後に姫が生まれ、三年後に王子が生まれ、お妃様はとても幸福でした。人々はこぞってこの美しいお妃様を敬愛しました。  二十五歳の誕生日の朝、お妃様は寝室の鏡を眺めて、ふと自分の美しさに影がさし始めているのを感じました。  ——疲れているせいかしら。子どもを二人も生んだのだから仕方がないわ——  そのときはさのみ気にもかけませんでしたが、二十七歳の誕生日になると、たしかに美しさが衰え始めたと考えずにはいられません。二十九歳になると、もうはっきりとその兆候が現われました。美しい人ほど、自分の容姿の衰えに敏感なものなんですね。  ——これはいけない——  お妃様は自分がすっかりみにくくなってしまう日のことを考えて、とても暗い気持ちになりました。  それから三日たった夜のこと、お妃様は身の行く末を案じてなかなか眠れずにおりました。眠られぬものならベッドで悩んでいてもつまらない。気晴らしを求めてひとりこっそりとお城を抜け出し、入江の水際まで遊びに出ました。  ザザン、ザザンと夜目にも白い波が心地よいリフレンを奏でています。  気がつくと、波打ち際にボートが一つ浮いています。ボートならお城の池で何度か漕いだことがあります。  その夜はとても星のきれいな夜だったので、お妃様はちょっと海に舟を出してみたくなりました。 「本当にすてきな夜だこと」  ボートは銀色の水面をなめらかに進みます。お城の灯が少しずつ遠くなり、いつのまにかすっかり沖に出てしまいました。  東の空に貼り絵のような弓張月がかかっています。  お妃様は船底に身を横たえ、  ——あの三日月を食べたら、どんなにおいしいかしら——  と、考えました。  尖った先端から今にも甘い蜜がしたたり落ちそうな気配です。  たくさんの星たちも心なしかいつもの夜よりもずっと近くに落ちて見えます。赤い星、青い星、黄色い星……、お妃様は一つ一つ目で追いながら、その味を想像しました。  お妃様はちっとも知りませんでしたが、沖あいには速い潮の流れが走っておりました。ボートはその潮にのってどんどん流されます。  気配を感じて身を起こしたときには、さあ大変。ボートはもう岸を遠く離れてお城の光をさえ見ることができません。 「助けて」  声をあげて呼んでも、夜の海はなにも答えてくれません。  お妃様は今さらのようにひとりで海に出たことを後悔しましたが、後悔してみたところでどうにかなるものではありません。海はまっ黒なうねりと化し、風も強くなったようです。そう思ううちにもボートはみるみる見知らぬところに向かって流されます。  お妃様は不安と悲しさでしくしく泣き始めました。でもボートは素知らぬ顔で走ります。  泣き疲れたお妃様は、そのまま船底に倒れて眠ってしまったのでしょう。次に気がついたときには、朝はもうすっかり明けていて、ボートは知らない島の岸辺を漂っていました。 「ああ、よかった」  どんな島だって海の上にいるよりは安心です。お妃様は衣裳のすそをたくしあげ、水を蹴って岸に駆けあがりました。 「だれかいないの?」  この島は無人島なのでしょうか。岸辺には家もありません。人が住んでいる様子もありません。  途方にくれたお妃様は、島のまん中に見える小高い丘に登ってみることにしました。  あそこへ行けばなにかがわかるかもしれない。少なくとも島の様子はくまなく見渡すことができそうです。  急な坂道を登りつくすと、なんと、頂上に小さな小屋が建っているではありませんか。  お妃様は喜んで駆け寄り、 「ごめんください」  と声をかけました。 「はい」  中から声が響いて草の葉のドアが開きました。 「あっ」  お妃様は思わず声をあげました。  顔を出したのは、粗末な衣裳をまとった女の人でした。  でも、その女の人の美しいことと言ったら……。  お妃様はそれまで世界中で自分が一番美しいと信じていたのに、その自分に負けないほどきれいな人が——いえ、いえ、自分よりもっときれいな人が目の前に突然現われたのですから、これは驚かずにはいられません。 「どうなさいましたか」 「ボートが潮に流され、この島にたどり着いたのです」 「それはお困りでしょう」 「どうか助けの者が来るまで私をここに置いてくださいませ。一人より二人のほうがどんなに心強いかわかりません」 「それはよろしいですけれど……ほんの五日ぐらいしか一緒には暮らせませんのよ」  女は謎のような言葉を吐き、ちょっと困ったような様子を示しましたが、とにかく家の中に入れてくれました。  気分が落ち着いたところで、お妃様は早速尋ねました。 「あなたはどうしてこんな島でひとり暮らしをしているのですか」  美しい女は片頬で笑って、 「それはね、もうすぐ私は死ぬからですよ。死ぬ姿を人に見られるのが厭なので、こうしてここにひとり住んでいるのです」  と答えました。  みなさんは野生の動物が死ぬとき、群からそっと離れてひそかに死ぬことを知っていますね。この女の人もそれと同じ覚悟だったのかもしれません。  お妃様は不思議に思いました。  その女の人は、とてももうすぐ死ぬようには見えません。こんなに美しい人が、美しさのまっ盛りに死ぬなんて……とても信じられません。 「どこかお病気なのですか」 「いいえ、もう年ですから」 「あなたはいったいおいくつなんですか」 「百三歳になります。このくらい生きれば自分の死ぬときはわかります」 「嘘ばっかり。百三歳だなんて……」  お妃様は相手が冗談を言っているのだと思いました。冗談でなければ、気が狂っているにちがいありません。  ところが、いろいろ話してみると、そうではありませんでした。  初めは話がトンチンカンでわかりにくかったのですが、よくよく聞いてみると、こういうことらしいのです。  その女の人の国では、人間は年を取れば取るほど美しい顔立ちになるらしいのです。三十歳の女より四十歳の女のほうが美しいのです。四十歳より五十歳のほうが美しいのです。五十歳より六十歳、六十歳より七十歳がきれいなのです。百歳を越えればどれほど美しくなるかわかりません。 「あなたのお国では、年を取るとだれもがそんなお姿になりますの?」 「そうですとも」  すばらしいことではありませんか。  みなさんはまだ幼いから、これがどんなにすてきなことか、よくわからないでしょう。でも、ひとことお母様にお話してごらんなさい。お母様はきっと、 「もしそうならいいんだけど」  と、ため息をつかれることでしょう。  だから、このお話は普通の童話と違って——つまりお祖母様やお母様がみなさんに聞かせてくれるのではなく、みなさんがお祖母様やお母様にお話してあげて、そうして喜んでいただくほうがいいのかもしれませんよ。  さて、お話をもとに戻して——お妃様はそんなにすばらしいことがこの世にあるものなら、自分もなんとかあやかりたいと考えました。  なにしろ三十歳を前にして、自慢の美貌が少しずつ衰えていくのをなによりも悲しんでいる矢先だったのですから。  お妃様は粗末な小屋で美しい女の人と一緒に暮らし始めて、少しずつその女の人の秘密がわかりかけました。  どうやらいつまでも美しさを保つ秘密は食べ物にあるらしいのです。  その女はけっして石を食べませんでした。それを除けばお妃様自身と少しも変らない生活をしているのですから、美しくなる理由はそれ以外に考えられません。  お妃様は、 「あなたはなにを食べているのですか」  と、尋ねました。 「たいしたものじゃありません」  女はお妃様の耳に口を近づけ、そっと呟きました。そしていつまでも若くしていられる秘密を……いや、年を取れば取るほどどんどん美しくなるこつを教えてくれました。  でも、それがその女の人の最後の言葉でした。自分たちの食べ物を親切にお妃様に教えてくれたあと、その人は間もなく息を引き取ってしまいました。  お妃様の悲しみは言うまでもありません。  これからはこの島でひとりで生きて行かなければいけません。  でも、運のいいことに、このときになって助けの船が島にやって来たのです。お妃様の行方を捜していた家来たちが、潮の流れから察して、もしかしたらこのあたりにお妃様が流れついているのではないかと考えて、捜しに来てくれたのでした。 「お妃様、ご無事でなによりでした」 「ありがとう。助かりました」  お妃様の喜びは一通りのものではありませんでした。無事に助かったばかりか、漂流のおかげで思いがけない秘密を手に入れたのですから……。  それからまた何年かたちました。  お妃様は二十九歳を境にしていっこうに年を取らなくなりました。それどころか年々美しくなるばかりです。  腰元たちがまずそのことに気づきました。 「お妃様はどうしてああいつまでもお美しいのかしら」 「もともとおきれいなのだから私たちとは違うわ」 「それだけじゃないわ。なにか秘密があると思うの」 「そう言えば、ここ数年お妃様はほとんどお食事を召しあがらないわ。なにも召しあがらずに捨てていらっしゃるみたい」 「本当ね。石炭のムニエルも、砂金とダイヤモンドのコロッケも昔のようにお喜びにならないし……」 「ねえ、知ってる? 夜になると、おひとりで森に行かれるのよ。森へ行ってなにかお食べになっているみたい」 「海辺をおひとりでお散歩されることも多くなったし」 「島からお帰りになってからのことよね、ひとりで森へいらしたり海辺へいらしたりするようになったのは」 「それに……その頃からよ、不思議なくらいおきれいになったのは」  腰元たちは森へ出かけるお妃様のあとをこっそりつけてみることにしました。海辺の散策もひそかに監視することにしました。 「やっぱり」 「あれが原因だったのね」  日ならずしてお妃様の食べ物が明らかになりました。どうやら美貌の秘訣は森や海で見つける新しい食べ物にあるらしいのです。 「私たちも同じものを食べてみない」 「ええ、やってみましょう」  腰元のひとりがみずから実験をかって出ると、もうひとりが続きます。二人ともなんだか急に美しくなったみたい……。そして一年もたつと、はっきりとその成果が現われました。  そうとわかれば腰元たちみんなが石を食べるのをやめ、お妃様と同じ物を食べるようになったのも当然でしょう。  五年もたつうちにお城中の女たちの食べ物が変りました。男たちの中にも真似る者が見られるようになりました。そして、それぞれが年ごとに美しく変っていったのです。女たちはもちろんのこと王様も大臣も。  もうこうなったらお妃様の食べ物は野を駆ける火のように国中に広がり、国全体の食生活が変り始めました。 「石なんか食べていたら駄目だ」 「新しい食べ物こそ美貌の秘訣よ」 「年とともに美しくなるなんて、なんとしあわせなことかしら」 「老後が楽しみになるわねえ」  お妃様が七十七歳で、神々しいほどの美しさでおなくなりになったときには、もはや新しい食べ物は国中だれ知らぬものになっていました。だれもがこぞって新しい食べ物を食べるようになりました。そして、みんながみんなあの無人島で死んだ女の人同様に、年を取れば取るほど美しくなったのです。  みなさんの中にもおやつをいただくとき、おいしいものをあとに残しておく人がいるでしょう。楽しみが先々に残っているのは、とても愉快なものですからね。  この国の人たちもそうでした。これは、おいしいお菓子を先に残しておくどころの楽しみではありません。なにしろ年を取るほど美しくなるのですから、人生は薔薇色です。もうだれも石など食べなくなりました。石の食べかたを忘れ、いつのまにやらむかし石を食べていたことも忘れるようになってしまいました。  その頃になって人々は気づきました。  たしかに年を取れば取るほど美しくなる。それはいい。けれどもそれは同時に、美しくなればなるほど死の時期が近づいて来ることを意味しています。美しさは死の合図と言ってもよいでしょう。  考えてもごらんなさい。みにくくなるのもつらいけれど、死はもっと恐ろしい。死はたとえようもなくこわいものです。人間をどことも知れぬ闇に引き込み、もう二度と戻してはくれません。その暗闇にどんなにおぞましいものが待っているかわかりません。それを考えると、美しくなるのを喜んでばかりはいられません。 「ああ、また美しくなった」  と、嘆かなければいけません。 「こんなに美しくなって、もう私は死ぬんだわ」  と、身震いしなければなりません。  こうして五十年、百年、三百年、五百年、千年が流れました。  もうこの国では石を食べる人などだれもいません。お妃様が島で教えられた食べ物は……そう、木の実、草の実、草の種、それから海や川に住む魚や貝だったのです。  それを食べているうちに人々の考えが変りました。美しくなることが死に近づくことだとわかったとたん、美しさそのものの考え方も変ってしまったのです。  肌に皺が寄り、しみができ、髪は抜けて白くなり、腰が曲がり、よろよろとよろけて歩くのが、むかしはなによりも美しいものだと考えられていたのに、今では肌がつやつやとして髪が黒く、体がピンと伸びているのが美しいことだと、この国ではみんなが思うようになってしまったのです。  お話はこれでおしまい。むかしむかし�美しい�お妃様はどんなお顔をしていたのでしょうか。さあ、みなさんも目を閉じて考えてごらんなさい。  風邪とサラリーマン  その夜、二匹の風邪のビールスが風に揺られて町をさまよっていた。雲は凍てつき、今にも雪の降り出しそうな寒い夜だった。 「寒いな。だれか人間の体の中にもぐりこもうぜ」 「うん。このままじゃこごえ死んでしまうぜ」  そうつぶやきあっているとき、二人のサラリーマンが町角に現われた。 「あれにしよう」 「あんまりいい男じゃないな」 「より好みをしているときじゃないぜ」 「まあ、そうだ。二人ともいいあんばいに疲れているらしい」  二匹は風に揺られて男たちの口もとに近づき、二人が息を吸った瞬間に、スイと鼻から肺へともぐり込んだ。  男たちの名はマジメ氏とナマケ氏。同じ会社に勤めるサラリーマンだった。  マジメ氏はその名前の通り生真面目な男で、この日も夜遅くまで残業をし社宅に帰る途中ちょっと駅前の居酒屋に立ち寄った。体は綿のように疲れていた。  一方、ナマケ氏は退社時刻を待ちかねるようにして会社を出て、そのまま麻雀屋へ足を向けた。それがナマケ氏の日課だった。昨夜も一昨夜も十二時過ぎまで雀卓を囲んだ。 「たまには少し早めにきりあげようぜ」 「ああ、そうしよう」  十時過ぎに麻雀屋を出て、駅前の居酒屋に立ち寄った。そこでマジメ氏に出合った。 「ぽつぽつ帰ろうか」 「ああ、オレも少し疲れた」 「麻雀も結構疲れるものらしいな」 「うん。仕事より疲れるぜ」  店を出て大通りの角にさしかかったとき、折あしく二匹のビールスとめぐりあったのだった。 「あなた、どうなさったの。もう七時半よ」  マジメ氏の奥さんが声をかけた。いつもならとうに起きているはずの夫が、まだ布団の中にいる。 「頭が痛い」 「あら、いやだわ。風邪かしら。熱があるの?」 「体温計をくれ」  計ってみると、三十八度を越えている。 「風邪よ」 「そうらしい。体のふしぶしが痛い」 「休んだら」 「そうもいかんさ。仕事が山のようにたまっているんだ」 「でも、体の調子のわるいときくらい休んだほうがいいわよ」 「風邪くらいでいちいち休んでいられるか。勤務評定にも響くしな。風邪薬を持って来てくれ」 「大丈夫かしら」 「グズグズ言うな。行くと決めたら行くんだから」  マジメ氏は身を起こし、屈伸運動をひとつしてから布団を離れた。  たしかに体調はわるい。しかし仕事は休めない。昨日も課長から「マジメ君は頑張るなあ」とほめられたばかりだった。勤務評定は入社以来ずっとAランクだ。一番いそがしい時期に風邪くらいで休暇をとるわけにはいかない。マジメ氏は無理を承知で会社へ向かった。  ——オレの誠意はきっと認められるだろう——  と信じながら。  同じ頃、ナマケ氏は自宅のベッドに身を横たえていた。頭が痛い。体がだるい。熱もあるらしい。 「あなた、どうするの。また休むの?」 「ああ、風邪を引いたらしい。こんなとき会社へ行ったって仕事にならん」 「もう年次休暇はないんでしょ」 「病気には勝てんよ」  入社以来勤務評定はずっとCランクだ。今期の査定もCだろう。今さら努力することもない。ナマケ氏は布団をかぶって目を閉じた。  マジメ氏の体に入ったビールスは体内で活発な活動を開始し、どんどん子孫を増やした。マジメ氏が体を酷使すればするほど繁殖はやりやすい。子孫はマジメ氏の口から鼻から飛び出して周囲の人間たちの体の中に新しい住まいを見つけた。  おかげでマジメ氏の課では、十人のうち九人までが風邪を引き仕事の能率はいちじるしく低下した。  一方、ナマケ氏の体に宿ったビールスはと言えば、白血球たちの激しい抵抗にあって繁殖もままならない。多少子孫を増やしてみたところで、ナマケ氏が家でのんびりと寝ているので、だれかの体に移住することもできない。一族はそのまま死に絶えるよりほかになかった。ナマケ氏の課ではだれも風邪を引くこともなく、仕事は順調に進んだ。  日ならずして、勤務評定が始まった。マジメ氏はA、ナマケ氏はC、いつもと変らぬ査定だった。  善 意 「よし、これにしよう」  タケシの心は決まった。  決意のきっかけとなったのは、社会面の小さな記事。東京・港区のマンションで、防犯ベルが鳴らず、ひとり暮らしの婦人が殺されたという事件だった。  防犯ベルなんてめったに使われないシロモノだから、たいていの家では鳴るのか鳴らないのか、ろくに点検もせずにほったらかしてある。防犯ベルの位置も適切とは言えない家がたくさんある。賊の侵入口のすぐそばにあったとしたら、どうやってそこまで押しに行けばいいものか。  タケシは工業高校に通っていたころ、ずっと電気工事店でアルバイトをしていたから電気設備の点検や屋内のちょっとした配線工事ならお手のものだ。資格も持っている。  新年を期してなにか世の中に役立つ仕事を無料で奉仕しようと考えていた矢先だった。  早速善意銀行に登録し身分証明書を作ってもらって日曜日ごとに近所のマンションからまわり始めた。 「今日は。おたくの防犯ベルはちゃんと鳴りますか。位置はうまいところについていますか。ちょっと調べさせてください」  突然の申し出に警戒を示す人もいたが、たいていは喜んでくれた。 「奥さん、ほら、電池が使えなくなっていますよ。これじゃいざっていうとき役に立たないでしょう」 「ベルが錆びついちゃって、大きな音が鳴りませんよ」 「これだけ広いお家だったら、防犯ベルのボタンが一ヵ所だけじゃ不十分だと思います。居間と寝室と裏口のところと三ヵ所くらいあったほうがいいんじゃないですか」 「えっ、防犯ベルがないんですか。それは危ないですよ。じゃあ僕が取りつけます。ええ、ほんの実費だけで結構です」  点検が終わると玄関に�防犯ベル検査済み�と手製ラベルを張って帰る。これだけで泥坊は心理的に入りにくい。  きょうの日曜日は駅裏の緑アパート。二百世帯も入っている古いアパートだ。  管理人の許可をもらってから、 「今日は。防犯ベルの点検をサービスさせていただきます」  ドアからドアへと挨拶をして歩いた。あちこちでテストのベルが鳴る。ベルはジリジリと高く響いて�さあ、泥坊さん、入れるものなら入ってごらん�とばかり叫んでいる。 「すみません。防犯ベルのテストをしますから、ベルが鳴っても心配しないでくださいね」  一段落したところで、さて昼めしでも食べに出ようか。  タケシが食事に立ち去ると、折しもこのアパートの一室に泥坊が忍び込んだ。ひとり暮らしの老人が奥で気づいて、ベルを押した。  ベルは作動して強く響く。  だが、だれも驚かない。 「あら、あの親切な学生さん、お昼も食べずにやっているのかしら。感心ねえ」  とてもいい気持ち  なにか赤いものが体の中をスーッと通り抜けて行くんですね。頭の中だけじゃなく、体ぜんたいを、頭のてっぺんから足の先まで通り抜けて行く、そういう感じなんですね。それ以上なんとも説明ができません。とても不思議な感覚です。それが合図なんですね。  初めっからお話すれば、私、一卵性双生児でしてね。ええ、私のほうが兄です。  双生児ってのは、あとから生まれたほうが兄なんですってね。あとから出て来るほうが授精のとき先だったって聞かされたけど、本当なんですかねえ。  もし出産が夜中の十二時を境にしていたらどうなるんです。先に生まれた弟のほうの誕生日が前の日。兄のほうが次の日。おかしいじゃないですか。まあ、役所への届け出は同じ日にするんでしょうけど。  親戚の家に子どもがなかったものだから、弟はもらわれて行きました。私はほとんど東京で育ちましたし、弟は岡山でしたからね。めったに顔をあわせません。一年に一回会うかどうか、その程度のものでしたよ。  そりゃちょっと妙な気はしましたね。会うたびに自分とそっくりの顔があるわけですから。私たちは一卵性双生児の中でも特によく似ていたと思います。自分でも区別ができないくらい……アハハハ、これは嘘ですけどね。顔だけじゃなく、性格とか趣味とか好きな食べ物とか、みんなそっくりでしたね。  幼い頃から、赤いものがスーッと体の中を通り抜けることはよくありました。でも、初めのうちはそれがなんだか気がつきませんでした。最初に�変だな�と思ったのは、小学六年生のとき。私は昼寝をしていて、なにか赤いものが通り抜けたと思った瞬間、ものすごい息苦しさを感じたんです。なにがなんだかわからない。いくら息を吸おうとしても空気が胸の中に入って来ない。必死になって胸をかきむしりました。苦しくて気が遠くなりました。  数日後、上京した弟に会ったら、私が苦しんでいたちょうどそのとき弟は水に溺れて、あやうく死にかけていた。そういう話なんですね。不思議だなと思いましたよ。  それから二年たって、私がビルの上でぼんやり町をながめていたんですね。やっぱり一瞬赤いものが通り抜けて、急にいい気持ちになったんですね。�どうしたんだろう。まるで高い山に登っているような気分だなあ�って、たしかにそう思いましたよ。同じときに弟がアルプスに登って北穂高の頂上にいたんですね。  その後気をつけていると、赤いものが通り抜けた直後には、いつも同じようなことが起きるんです。感応作用って言うんでしょうか。一種のテレパシイみたいなものですよね。アメリカやヨーロッパじゃ、双生児のあいだでときどきこういう現象が起きるって、学術報告があるそうですね。  本気で信ずるようになるまでには、ずいぶん時間がかかりましたよ。初めのうちは、ただの偶然の一致だと思っていましたしね。  それに、ほら、弟とはそう繁く顔を合わせているわけじゃないから、確かめる機会があまりないしね。確かめてみても日時がたっていると、はたしてピッタリ同じ時刻だったかどうか、そのへんが曖昧になってしまいますしね。  いえ、弟のほうはべつに赤いものが通り抜けたりしないようです。感ずるのは私のほうだけです。どうやら私たちの感応作用は一方通行のようでしたね。  はっきりと確信を持つようになったのは、ここ一〜二年のことです。むしろこの前の事件で確信したと言うべきかもしれませんね。  会社で仕事をしていたら、赤いものが走り、突然ガーンと全身にショックを受けて気絶しました。すぐに正気に返って、  ——これはいかん。弟になにかが起きた——  と思いましたよ。  案の定、交通事故でした。  弟は病院からの帰り道、自動車にはね飛ばされて死にました。運転手の証言では、もの思いにふけっていて注意力を失っていたようです。弟は、癌にかかっておりましてね。もう先が長くないと、それを考え込んでいたんでしょう。  私もピンと感じましたよ。なにしろ私たちは顔も体もそっくりですからね。私も同じ病気に冒されているんじゃないかって。半年くらい前から体調もおかしかったし。  やっぱりそうでしたよ。医者は否定してますけど、私にはわかります。私も先の長い命じゃありません。  でも平気です。弟が死んでからも、ときどき赤いものが通り抜けるんですよ。そのとたんすてきにいい気分になってね。ちょっと口では言い表わせない爽快感ですよ、これは。で、思うんです。�なるほど。弟は今いい気持ちなんだな。死後の世界はとてもいいところなんだな�って……。 海の眼  海の眼  少年は日暮れの埠頭《ふとう》に立ってゴム風船を海に飛ばしていた。  黒いズボンに、まっ白いタートル・ネックのセーター。絵本の中の挿し絵のようだった。  少年の背後から吹く北風にあおられて、いくつもの風船が黒い雲の渦巻く海の上に長い列を作って散って行く。  少年のかたわらにリヤカーが一台。リヤカーには魚雷のようなボンベと、大きなバケツが五、六箇置いてある。  ——なにをしているのかな——  私は散歩の足を伸ばして近づいてみた。  海は沖のほうから暮れ始め、雲と水平線の境目もはっきりとはしない。  バケツの中には二センチ立方くらいの氷がいっぱいに詰まっている。よく見ると、その一つ一つの氷塊に糸がついている。枠で仕切った水の中に糸の一端を一本一本入れ、そのまま凍らせたらしいとわかった。  ボンベの中には水素がつまっているのだろう。少年はボンベからシューッとゴム風船の中に水素を入れる。そしてバケツの中から出ている糸で器用に風船の口を縛り、それを埠頭の端から海へ放していた。  氷の重さと水素の浮力が、ちょうどよいバランスをとっているらしく、風船は一瞬空中にピンと立って�気をつけ�の姿勢をとる。と見るうちにたちまち強い風にあおられ、いたいけな童子が�いやいや�をするみたいに首を振って遠ざかる。  少年はずいぶん前からこうして風船を飛ばしていたのだろう。海に散った風船は、ざっと数えて見ただけでも七、八十箇くらいありそうだ。 「なにをしているんだ」  声をかけたが、少年は知らん顔でそのまま作業を続けている。声が風に切られて聞こえなかったのかもしれない。  私はさらに足を進めて、 「おい、なにをしている?」  と、今度は声高に言ってみた。  少年はピクンと振り向いた。  十二、三歳くらいだろうか。色白の、端整な面差《おもざ》しだ。さぐるような白い視線がジロンと飛んで来る。切れ長の美しい眼。だが、眼差しは暗く、かすかに無気味でさえある。 「風船を飛ばしているんだよ」  声が幼い。  少年はそう言いながらも手を休めない。赤い風船がまた一つ飛んだ。 「どうして風船を飛ばすんだ?」 「べつに……」  身ぶりが�お前には関係がない�と告げている。  私は黙ってそばに立ち、タバコをさぐりながら少年の奇妙な仕ぐさを眺めていた。少年は独り薄く笑って、この遊びを楽しんでいるようだ。  青い風船が飛び、黄色い風船が青い兄貴を追いかける。  突然、少年が振り向いた。 「教えてあげようか」 「ああ」 「これはみんなママだよ」  すぐには言葉の意味がわからなかった。ママと言えば母親のことだろう。どれが少年の母親だというのか。最前からの様子を考え合わせて私はふと幼い狂気を連想してみた。 「ママはきれいだったよ」  そうだろう、この少年の母親ならば……。私は少年の面差しのうえに同じような顔立ちの女を重ねてみた。 「それで?」 「夜になると、いつも裸になって抱いてくれたんだ」  本当かいな。頭の中のイメージが急になまめかしさを帯びた。少年の、若い母親……まっ白い女の裸形が浮かんだ。形の崩れかけた豊満な乳房と淫らに繁る恥毛も。 「うらやましい?」  思いのほかあどけない調子で尋ねられ、私はあわてて狼狽の色を隠した。 「ああ、うらやましい」 「マシュマロ……知っているだろ」 「知っている」  母親の肌がそうだというのか。それも納得がいく。 「好きかい?」  大人の心をさぐるような、厭な上目使いだ。 「なにが? マシュマロかい」 「うん」 「あんまり好きじゃない」 「オレも好きじゃない。でも触ると気持ちいいよ」 「お父さんは?」  そう尋ねたのは少年の環境を考えてみたからだ。 「いないよ」 「ママと二人っきりなのか」 「うん。でもママがよそのつまらない男とくっついたからね」  ませた台詞を言う子どもだ。 「つまらない男かどうか君にわかるのか」 「それくらいわかるさ」 「どうして?」  少年は答えない。背を向けたまま相変らず風船を飛ばし続ける。タバコがチリチリと焦げる。  気がつくとバケツの中の氷はうっすらと赤い色を帯びている。赤と言うより赤黒い色を帯びて光っている。 「オレを捨てようとしたからね……。で、殺しちまったんだ」  少年は奇妙に透明感のある、無邪気な笑いで笑った。それにしても�殺す�という言葉は少年の年齢にそぐわない。 「まさか」 「本当だよ。隣に製氷所があって、よく夜勤を頼まれるんだ」  また話がピョンと飛んだ。 「…………」 「冷凍庫はマイナス二十度くらいまでさがるからね。ママをカチカチと凍らせて、それから砕氷機にかけて……。夏に食べる氷イチゴ知ってるだろ。魚のお腹に入れる、こまかい氷を作るのに使うんだよ。あの機械さ。ママの体は五分くらいでみんなかき氷になっちまったよ」  言われてみれば、氷の色はどこか血の色に似ている……。  私はゆっくりとタバコの煙を吐いた。 「嘘がうまいな」 「嘘じゃないよ。もうママはどこにもいやしないさ。だれが捜したって見つからないよ。あんなにきれいなママがみんなかき氷になっちまったんだから、ちょっとかわいそうだったな。ずっと前�死んだら空へ行きたい�って言ってたから、オレ、空に飛ばしてやろうと思ったんだ」  少年の手のぬくもりで氷が少し解ける。掌も赤い滴りで濡れている。  少年は独り言でも言うように視線をそらしたまま話し続けた。 「オレ、学校から帰ると、よく製氷所のおじさんの手伝いをしたからね。知ってるんだよ。キュービック・アイスを作る機械にかき氷をつめて、一つ一つに糸を入れて、もう一度凍らせたんだ」  得意そうに言葉尻をちょっと高くあげた。  本当にそんなことができるのだろうか。  テレビのCMでバナナが氷同様に固く凍りつくのを見たことがある。人間の体だってあんなふうにならぬものでもあるまい。もともとあらかた水分なのだから……。それを砕氷機にかけて粉粉にする。それをさらに格子の枠の中に入れてキュービック・アイスにしてしまう。  馬鹿らしい。そんな惨酷なことが……。  だが、待てよ。海の匂いに混って、かすかに血なまぐさい香りがフッと鼻を刺す。どこかに魚の死体でも転がっているのだろうか。 「お祭りに行くだろ」  少年の話題はどこへ飛んで行くかわからない。まるで風船のように。 「ああ、たまにはね」 「オレ、風船売りの手伝いをやったこともあるんだ」  これは本当だろう。風船に水素を入れる手つきは慣れたものだ。 「いろいろやるんだな」 「ママはたいていうちにいなかったもン」  母と子と二人だけのさびしい生活。美しい母親はどこでどんな生業を営んでいたのか。どんな男と逃げようとしたのか。夜ごとに少年を抱いたというのは本当だろうか。  母が少年を捨てようとしたとき、少年は嫉妬に狂ったのだろうか。 「ボンベを貸してくれるところも知ってたからね。ママをみんな空へ飛ばしてやるんだ」 「大人をからかっちゃいけないよ」 「そう思う?」 「ああ、思う」 「なら、それでもいいよ」  少年はプイと背を向けた。  バケツの中をのぞくと、もう氷塊はいくつも残っていない。底のほうに一つだけ黒い塊を埋めた氷が転がっている。 「その……底のほうにあるのは、なんだい? 少し色が違うじゃないか」  少年もバケツの中を見た。 「ここにあったのか。機械で削るとき、眼の玉が一つだけ転げたんだ。それだけはそのまま凍らせたんだ」  少年は悪戯《いたずら》っぽい眼差しで私を見つめた。  透明な氷の中に、なにやら不確かなものがあった。それが最後の氷塊だった。  ——人間の眼だ——  そう思ったとき、風船が少年の指を離れた。  四角い氷の中に——まるでなにかのお菓子みたいに焦点の定まらない黒い眼があった。糸にあやつられ、宙に浮き、ボンヤリと虚空を見つめている。風に揺れ、ツンツンと弾みながら私を見ている。  手を伸ばしたが、風船はあざけるように埠頭のきわを離れ、なおも眼下のもの悲しい風景をじっと見おろしている。  ——少年の眼に似ている——  わけもなくそう思った。  一きわ強い風が吹く。  風船は叩かれたように揺れ、数多《あまた》の風船を追って高く、高く飛ぶ。眼下には荒れた海があるだろう。地上の風景はみるみる小さなものと変っただろう。  私は気を取り直して振り向いた。  少年の姿はすでになかった。  そしてふたたび海を見たときには、風船たちの長い列も渦巻く雲に飲まれて消えていた。  目黒のサンマ  サカタ氏は東京の目黒で生まれ目黒で育った。 「目黒って、なにが有名なんだ?」  会社の同僚に尋ねられても、にわかに思い浮かぶものがない。山手線の駅。付近には高級住宅地があって……そうか、お不動さまがあるぞ。あそこの境内には、青木昆陽の墓があって……待てよ、そんなことを言うと「なんだ、イモの名産地か」とひやかされるんじゃあるまいか。  答えかねていると、仲間の一人が、「そりゃ、目黒はサンマにきまっているじゃないか」と茶化した。  その落語なら、サカタ氏も知っている。  たしかお殿様が家来を連れて鷹狩りに出かけるんだ。目黒の里に迷いこんで、お腹はペコペコ。どこかにものを食するところはないものか? 一軒のあばら屋を見つけて、家来が「これ、お殿様のお口にあうものはないかな」  そう言われても困ってしまう。品川沖であがったばかりのサンマが一匹あるけれどこれは下魚だからお殿様が召しあがるものじゃない。  だがお殿様はひときわご空腹のご様子。 「苦しゅうない。それを持て」 「ヘヘーッ」  炭火でジュウジュウと焼き、脂の流れ落ちるサンマを差し出した。  言っちゃあわるいが、昔のお殿様なんて、鶴の吸い物だか、菊のおひたしだか知らないが、普段はだしがらみたいなものばかり食べさせられている。空腹のうえに、とりたてのサンマの塩焼き。これ以上の美味はない。これが病みつきになり、お城に帰ってもなにかとサンマを食べたがる。お城のお料理番はサンマの腹わたを取り骨を抜き、相変らずだしがらみたいな料理を作るから、これがうまいはずがない。お殿様がため息をつき、 「サンマは目黒に限る」  と呟くのが、落語のオチになっているはずだった。 「昔は目黒なんか山の中だったんだろうな」 「今はりっぱな住宅街だぜ」 「もう一つ、目黒には新しい名物があるだろう」  遊び好きの男がニタニタ笑いながら言う。 「なんだ?」 「地元にいて知らんのか。目黒なんとかというラブ・ホテルがあるだろう」  名前は知っていた。どこにあるかも知っているけれど、サカタ氏は一度も行ったことがなかった。そのホテルには、いろいろめずらしい設備がそろっているらしい。 「あのくらいのホテル、最近はどこにでもあるんじゃないの」 「しかし、目黒が元祖だよ」  あまり自慢になるシロモノではない。�しかし、一度くらい行ってみたいな�サカタ氏はそう思わないでもなかった。  その機会は思いのほか早くやって来た。子どもたちの夏休みが始まり、妻は家族を連れて鳥取の実家へ帰った。妻の実家は、日本海を望む小高い山の上にあって夏のレジャー地としては絶好のところ。 「あなたもあとからいらっしゃいよ。夏休み、取れるんでしょ」 「ウーン」 「お父さんもおいでよね」 「うまく休みが取れたらな」  妻と子どもを送り出し、しばしのやもめ暮らしとなった。  一日、二日の休暇がとれないでもなかったが、山陰まで行って帰ってでは、骨休めにもなるまい。海の遊びも中年男にはただ疲労を連想させるだけだ。わざわざ疲れるために夏休みを取るのも馬鹿らしい。  その夜は、八時過ぎまで残業をして、行きつけのバーに足を運んだ。 「あら、サカタさん、お久しぶり」  昔顔なじみだったホステスが、今夜は客となって遊びに来ていた。もう店には顔見知りも少ないらしく、退屈そうにグラスを傾けているところだった。  たちまち意気投合し、一軒二軒とはしご酒。彼女は一度結婚したが、なにか理由があって別れたらしい。飲むほどに、酔うほどに、 「ねえ、一度だけ行ってみたいところがあるの。雑誌なんかに書いてあるでしょ。いろんな設備のあるラブ・ホテル……。ウフフフ」  こうまで言われてたじろいでは男の恥。サカタ氏は勇躍目黒のラブ・ホテルへとタクシーを走らせた。  うだるように暑い夜だった。だが室内はほどよい冷房が効いていて、まことに心地よい。今晩はここに泊って、明日は休暇をとろう。列車に揺られて遠くの海に行くよりよほどすばらしい休暇になるだろう。生涯で最高のサンマー・ホリデイ。  サカタ氏はふと呟いてみた。 「サンマーは目黒に限る」  形 見  妻が死んだ。  二十一年の結婚生活だった。格別仲のむつまじい夫婦ではなかったが、さりとて憎みあって暮らしていたわけではない。世間のどこにでもあるような平凡な夫婦、月並みの家庭。生活の方便としての親しさ。まあ、そんなところだったろう。  見合い結婚だったから初めの数ヵ月はなじみにくかったが、すぐに気ごころも知れて親密になった。一、二年は甘い季節が続いただろうか。そのうちに倦怠期がやって来る。おたがいの欠点が見えて来る。諍《いさか》いも多くなる。やがてそれもいつのまにか通り過ぎてしまい、振り返って見れば、ただの共同生活者としての年月だけがやたらに長く横たわっているような気がしないでもない。  妙子が生まれたのは結婚二年目。もう一人男の子がほしかったが、残念ながらこれは恵まれなかった。一人と言うことなら、娘でよかった。これからは妙子が私の身のまわりの世話をしてくれるだろう。  妻の死顔は美しかった。化粧がよく肌に載っていた。若い頃には人の噂にのぼるほどの器量よしだったが、ここ数年妻の顔立ちをことさらに意識したことはない。年齢のせいばかりではない。やはり健康がおもわしくなかったからだろう。顔色はくすみ、美しさを汲み取るのはむつかしかった。  四十五歳の死だから、まだ若い。私と一緒に暮らしたためにこんなに早く死んでしまったのか。だれかもっとやさしい男と結婚していたら長生きをしたのだろうか。  いや、私が特にわがままな夫だというのではない。この点も世間並み。ほどほどのわがまま、ほどほどのやさしさ。とりたてて反省もなければ自負もない。ただ二十一年の年月はそれ自体、歴とした実体を備えている。妻の病いは胃から始まった。魚より肉のほうが好きだという私の嗜好が一家の食生活を支配し、それが妻の死に微妙な影響を与えたのかもしれない。通勤時間が長いので妻はいきおい早起きをしなければいけなかった。疲労もたまっただろう。それも彼女の健康にいくばくかの変化をもたらしただろう。どれがプラスの要因で、どれがマイナスの要因か、判断することはむつかしいけれど、とにかく結果として妻が早世《そうせい》した以上、私と生活をともにしたことになにがしかの原因があった、と考えるのは理屈に適《かな》っている。  それとも妻はどの道この年齢で、この病いに冒されるよう運命を背負っていたのだろうか。むしろ私以外の男だったら、もっと早い死に遭遇したとも考えられる。わからない。  葬儀のあわただしさが通り過ぎると、しばらくはこんなことを考える夜が続いた。私はやはり妻をそれなりに愛していたのだろう。よし、蜜のような甘さではなかったとしても……。  初七日も過ぎ、妻の箪笥の整理をしていたら、引出しの奥から古い包装紙に包まれてネクタイが一本現われた。  ——こんなものが……まだあったのか——  私は古い写真でも突きつけられたような驚きを覚えた。  この色、この模様、しばらく忘れていたが、はっきりと見覚えのある品だ。紺色の地に水玉が散っている。わるいデザインではないけれど、はでなことはたしかに相当にはでである。昔のサラリーマンはもっと地味なネクタイを締めていた。今の私には華やか過ぎる。 「しかし、締めてみるかな」  このネクタイを贈ってくれたのは……そう、春海《はるみ》という名の女だった。職場で机を並べていた。彼女はどうしているだろう?  遠い記憶の中から春海の顔が少しずつ浮かんで来る。正確には思い出せない。脳の働きをよほど鋭くしないと、なかなかそのイメージを鮮明にすることができない。まず二重まぶたの、茶色い眼が浮かぶ。鼻は輪郭を思い出すのがむつかしい。唇はちょっと肉感的にふくらんでいた。笑うと白い歯がこぼれる。彼女の面差しの中で一番みごとだったのは、笑顔の明るさ、歯並びの美しさだったろう。  家庭環境の複雑な子だった。爽快な笑顔の中にも、どこか無理に作って笑っているような影があった。 「笑顔がきれいだね」  と、ほめれば、 「家では笑わないの。だから会社でたくさん笑うの」  と、答える。  母は継母《ままはは》。その母の子が下に二人いるらしかった。本当の母とは三歳のときに死別したとか……。  そのさびしさが春海を私に近づけたのかもしれない。私も春海を愛した。ほんのいっときではあったが自分の妻を憎むほどに。  それにしても、いったい二人はなんのための関係だったのか?  親しくなったきっかけも、ホテルで抱きあうまでになった経過も、それから別れるまでのいきさつもみんなはっきりと思い出すことができるのだが、もう一つ納得のできないものが残っている。  ——春海はどういうつもりで私と親しくしていたのか——  彼女の心の中の動機がよく掴めない。  私に妻子があることは充分に知っていた。だから私と結婚することなどけっして考えやしなかったはずだ。  ほんのひとときの火遊び。ちょっとした冒険。そんなタイプの娘には見えなかったけれど、現代っ子は違うのだろうか。それとも女はみんなそんな欲望を隠し持っているのだろうか。  私と体を重ねたとき、彼女は他の男との結婚が決まっていた。結婚の日が迫っていた。つまり……結婚を前にして私に抱かれることをわざわざ企てたのだった。 「初めてだったのか」 「ええ」 「どうして?」 「わからない。ただ、こうしたかったの」  心から喜んで飛び込む結婚生活ではなかったのだろう。無理に飛翔するためには、それなりのスプリング・ボードが必要だったのかもしれない。  十日後に春海は退職した。職場の上役とOLの恋。それもとびきり淡い味つけのやつ。めずらしくもない。どこの職場にも転がっている。 「これ……」  最後の日に、春海はそっけないほど堅い身振りで私の引出しの中に細い箱を押し込んだ。 「なんだ?」 「…………」  別れの贈り物だということはすぐにわかった。 「ありがとう」  その声が届いたかどうか。すでに贈り主は机と机のあいだを抜けるうしろ姿に変わっていた。  私は残業のあと人気のない事務室で包みを開いた。紺地に水玉のネクタイ。趣味は悪くないが、少し若過ぎる。春海の目には私はこのネクタイほどに若く映っていたのだろうか。  追想はさらに広がる。 「なによ、このネクタイ」  洋服箪笥の中からプレゼントのネクタイを取って結びかけたとき、妻がめざとく見つけて咎《とが》めた。その表情も目の奥に浮かぶ。 「パチンコで取った」  とっさにそう答えたのは、心のやましさのせいだったろう。  ネクタイを贈り物としてもらうのは、つね日頃からないことではなかった。仕事で利用するバーやクラブからもよくもらった。職場の女性から贈られることもなくはなかった。いつももらっている品だから、ことさら妻に隠すこともあるまいと思って、ネクタイかけにぶらさげておいた。  妻は水玉やチェックなど幾何学模様を好むほうだ。私はむしろ「いい柄ね」とほめられることを期待していたくらいだった。ところが……。 「パチンコ……? さすがに悪い趣味ね」  私は妻の言葉を計りかねた。どこかがおかしい。本当にパチンコ店の景品だと信じたのだろうか。それともなにか漠然と、このネクタイの背後にある感情を感じ取ったのだろうか。たとえば、春海に対する私の心残りを……。 「そうかなあ。そんなに悪いか」 「悪いわ。天道虫のポツポツみたいじゃない」 「近頃はやっているらしいぜ」 「まともなサラリーマンの趣味じゃないわね。黴菌《ばいきん》みたい」  妥協を許さないほど、きっぱりとした語気で言う。 「そうかな」 「そうよ。やめて」  妻は手を伸ばして私の首筋からネクタイを奪った。こんな仕ぐさもめずらしい。  あまりこだわってはかえって疑いを招く。どこまでもパチンコの景品であるかのように取りつくろわなければなるまい。 「じゃあ、やめた」  水玉を妻の手に委ね、私は手に触れるネクタイを締めて家を出た。  そのあとあのネクタイはどうなったか。ついぞ見かけることもなかったし、妻に尋ねもしなかった。  そして十数年後、妻が死んで……それが突然引出しの底から現われた。  大切に取っておいたという印象ではない。そそくさと詰め込まれ、そのまま引出しの奥へ奥へと追いやられ、いつしか一番隅に安住してしまった——そんなふうである。捻《ねじ》れて皺が寄り、貧相な様子に変ってしまった。  ——それにしても——  と、疑念が首を持ちあげる。  どうして妻はネクタイの背後にある事情を嗅ぎわけたのか。けっして趣味の悪い品ではない。ああまであしざまに言われる模様ではない。  さりとて春海との関係を妻が知るはずもない。社内でも気がつく者はいなかった。それほど秘かな関係なのだから、春海から贈られた品だとわかる可能性も皆無に近かった。  ——女の勘なのだろうか——  どうやらそうらしい。なにかしらこの模様を見たとき、直感的に閃《ひらめ》くものがあったのだ。そうとしか考えられない。  私がどこの女とどんな時間を持ったか、妻は明確にはなにも知らなかった。しかし、妻は夫がネクタイを身につける瞬間の、そのなにかの表情の中から、さながら懐剣の閃きでも見るように危険なものを感じ取った。  ——嫉妬かな——  もう夫婦生活の甘い感情などをすっかり失った時期だったから、なまぐさいやきもちではなかっただろうけれど、やはり妻は鋭く反応せずにはいられなかったのだろう。  ——おもしろいな——  古いネクタイを握っていると、あの時のかすかな無気味さが胸に戻って来る。 「なに、それ?」  部屋の隅に立っている父を見て娘が怪訝な顔で尋ねた。 「これ、アイロンをかけておいてくれ」 「あ、いい柄」 「そう思うか」 「うん。たまにはお父さんもこういうの締めたらいいわ」 「そうかな」 「どうしたの? お母さんの形見?」 「いや。もらい物だ。ずっと前にもらって忘れていた」 「へえー」  アイロンをかけると、ネクタイは扁平につぶされ、いくぶん安っぽい様子になってしまったが、色合いの上品さはそのまま残っている。  ——せめて妻の喪があけるまで締めるのはよそうか——  あの時以来、春海の噂は聞かない。幸福に暮らしているだろうか、もう三十代のなかばくらいになったはずだが……。 「ねえ、お母さんは死ぬこと自分で知っていたのかしら」  初七日が過ぎると弔問客も絶え、父と娘だけのさびしい生活が始まる。二人で食卓を囲んでいると、いまに「ただいま」と声が響いて妻が帰って来るような気配が流れる。  そして�ああ、そんなことはないんだな�とあらためて死の現実を噛み締める。 「うーん、口先ではなおるつもりでいたけど、本心は知ってたかもしれないな。どうして?」  妙子は立ちあがり、小引出しから小さな封筒を取って差し出す。 「なんだ?」 �見て�とばかり顎を突き出した。なにやら中に堅いものが入っている。開くと、まずメモ用紙に記した走り書きが現われた。 「化粧バッグから出て来たわ」 「ふーん」  なめらかな筆使いは明らかに妻のものだ。 �妙子さん、これをあなたにあげます。大切にしてくださいね�  ボールペンの文字はそう読めた。  短い文章だが、文面から受ける感触は不思議におごそかで、死を覚悟した母が娘に形見を残す、そのそえ書きのように映った。  碧色の石を載せた指輪が封筒の中からこぼれ落ちた。 「ほう?」  またしても遠い情景が甦える。  こちらはネクタイの記憶よりさらに古い。二十年以上も昔のことだ。結婚をして間もない頃だったろうか。ある日、妻の指にこの指輪が輝いていた。私は目を見張った。妻の身振りにはかすかな狼狽の色があった。 「どうしたんだ?」 「ううん、べつに……。大森の叔母さんから……」  どこかがおかしい。私はその指輪がどうしても好きになれなかった。 「そんなもの……よせよ」  指輪を見るたびに同じ言葉を繰り返した。  疑念を抱く根拠が明白にあったわけではない。ただ、その指輪の存在そのものがうとましく、好きになれなかった。指輪は私の目の前から消え、今日まで姿を現わさなかった。  ふと思う。妻が水玉のネクタイを嫌ったのも同じ事情ではなかったのか。夫婦は独特の感覚でいまわしいものの存在を嗅ぎわけるのかもしれない。  今その不思議な品は娘の指先で光っている。 「品のいい指輪ね。お母さんこんなの持ってたなんて、知らなかったわ」  上品なデザインでありながら、私の心を苛立たせたのはなぜだったろう? やはりあのネクタイと同じ事情が潜んでいたのかもしれない。二十年も古いこと……。  ——待てよ——  妙子もそのくらいの年齢になるのか。妙子が少しも私に似た娘ではないことを私は今さらのように思い出した。  家族の風景  イチロウとタミコの結婚が決まったとき、タミコは、 「あたし、おかあさまと一緒に住むのはいやよ」  と、口をとがらせた。  イチロウは一人息子である。タミコが一緒に暮らしてくれなければ、母は一人ぽっちになってしまうだろう。 「うちのおふくろは扱いやすいと思うよ。口やかましくはないし、やさしいし……。それに、絵をかくのが好きでね。絵さえかいていれば、ほかに不平や不満はなにもないんだよ」  暗に母との同居をうながしたが、タミコはどうしても承知してくれない。こうなると昨今の男たちは、からきし意気地がない。 「お母さん、わるいけどタミコがべつべつに暮らしたいって言うものだから……いや、新婚のうちだけだよ。一年もしたらお母さんのところへ戻って来るから」  母親は静かに笑いながら、 「いいんだよ。あんたたちさえそれで不自由なくやっていけるなら……。わたしはまだ体が丈夫だし、それに、絵さえかいていればそれで楽しいんだから」  と、逆に息子を慰めてくれた。  イチロウはほっと胸をなでおろしたが、母の表情はどこかさびしそうだった。  結婚のお祝いに母が贈ってくれたものは一枚の絵だった。雌鶏と卵が一つかいてある……。 「なによ、この絵」  タミコは失望の色を露骨に現した。 「うん、そうだな」  イチロウも首を傾《かし》げた。  二人は共働きである。朝の食事はとてもいそがしい。 「ごめんなさい。きのう買い物を忘れちゃった。食べるものがなんにもないわ」 「朝は、チャンと食べなきゃ体にわるいんだよな」  母と暮らしていたときは、いつも新鮮な目玉焼きを食べて会社へ出たのだった。  気がつくと絵の下に卵が一つ落ちている。 「あら?」  タミコがつぶやくと、絵の中の雌鶏が、もう一つタミコの分の卵を生んだ。  それからは毎日、雌鶏が新鮮な卵を生んだ。とてつもなく重宝な絵だとわかった。  次の日曜日、二人は母のところへお礼を言いに出かけた。  母の家にも同じ雌鶏の絵があった。しかし、この雌鶏の絵には、そばに食卓があり、食卓を囲んで年老いた女と若い夫婦が、笑顔で食事をとっていた。 「この雌鶏もタマゴを生むの?」 「ええ、そうよ。さ、奥にお入りなさいな」  ドアをあけると絵そっくりの部屋があった。  イチロウの無断欠勤が続くので会社の上役が調べてみると、奥さんともども急に蒸発したらしい。イチロウの実家へ連絡をとったが、実家の母も見つからなかった。壁にはただ一枚の絵。一家だんらんの風景。雌鶏が卵を生んでいる……一つ、二つ、三つ。  レンズの中の男  ビールの思い出ですか?  初めて飲んだのは五歳くらいかな。まだ家が小石川にあった頃だから……。  古い屋敷でね。夏になると縁側に机を置いて浴衣姿の大人たちが飲みだすんだ。あの頃は大家族で、親父のほかに叔父や従兄もいたしね。お客の多い家だった。井戸から冷たい壜を引きあげて来て、  ポン。  シューッ。  ジョロ、ジョロ、ジョロ。  夏の風物詩ってやつだね。つまみは枝豆に冷やっこ。団扇でパタパタと胸元に風を入れたりしながら、クイクイと飲みほしてしまう。  見ていてうまそうだと思ったね。  ——サイダーだってあんなにおいしいんだから、もっと泡のよく出るビールはどのくらいおいしいだろう——  子どもはみんなそう思うんじゃないのかな。冷たい物は、「疫痢《えきり》になるから」って、あんまり飲ましてもらえなかったもんな。  えっ、疫痢を知らないのか。  なにしろ古いことだもんな。五十年以上もむかしの話。昭和の初めのことだもん。  でも、オレはよく覚えているよ。  大人たちがいなくなったあと、ビール壜に五センチほど残っていたからコッソリ飲んでみたんだ。  ゲボッ。  にがいのなんのって、とても飲めるシロモノじゃない。あわてて縁側の外に吐き出してしまった。  子どもの味覚って大人と少し違うんじゃないのかな。とにかくまずかった。  ——こんなまずいもの一生飲むもんか——  そう思ったね。  そのうえ大人になって初めて二日酔いをしたのもビールを飲んだときでね。  いや、ビールがわるかったわけじゃない。こっちの体調がひどかったんだ。ほかの酒やウィスキーに比べれば、ビールはずっと健康的な飲み物だもんね。  もう戦争が悪化していた頃だよ。ビールなんかめったに手に入らなかったからね。  友だちの家で、どうやって入手したのか「ビールが一ダースもある。盛大に飲もう」ってことになってサ。四人ばかり仲間が集って飲んだんだ。おつまみはタニシの煮つけにいり豆だったと思うよ。当時としては、上等な食い物だったろうけど、どっちも消化にいいものじゃないね。学徒動員でこき使われ、体はクタクタだったし、腹もこわしていた。慢性の下痢で、簡単には止まらない。  それでもビールが飲めるとなりゃ、このチャンスを逃してなるものか。少しは空腹のたしになるだろう。  意地きたなく飲めるだけガブガブ飲んじゃったものだから、ベロンベロンに酔いつぶれちゃってサ、完全な二日酔い。下痢はひどくなるし、体の力はまるでなくなるし……しばらくはビールを見るのも厭だったね。  もっとも見ようとしても、めったにビールなんか拝めなかったけれど……。  ビールの味が少しずつわかるようになったのは、終戦後、世の中が少し落ちつくようになってからじゃないのかな。  当時はウメ割りとかブドウ割りとか、焼酎に色水を混ぜたようなヘンテコなものがはやってた。ビールはそれに比べれば高級品だったな。  ああ、そう、そう、忘れられない景色がもう一つあるんだよ。あれは、なんだったのかな。あとになって考えてみても、よくわからなかった。夢じゃないか、なんて思ったりしてね。  とにかく場所は鎌倉の海岸近く。海が見えたもん。季節は夏の盛り。日暮れどき。西日を受けて海が金色に光っていた。  まだ海水浴の客なんか、ほとんどいない頃だったな。世の中全体が食うのにいそがしくて、家族を連れて海に遊びに来るような、そんな暢気な気分じゃなかったよ。腹の減るようなことなんか、だれもやりたくない。  オレはアメリカ兵相手のブローカーみたいな仕事をやっててね。 「鎌倉の旧家で、着物とか掛け軸とか、古い物を売りたがっている」  そう聞いて東京から下見に行ったんだ。  アメリカの将校なんか、結構|贅沢《ぜいたく》な生活をしていたよ。彼等にしてみりゃ普通の生活だったのかもしれないけど、日本人は貧しかったからな。  将校たちが一等地の別荘を押収して、優雅にやっているんだよな。  ——くそっ、おもしろくねえなあ——  そう思ってみても、  ——もう一回、戦争やるか——  そう言われたら、こっちはグウの音も出やしない。むしろアメリカ兵のおこぼれをもらおうと思って必死になっていたのが実情だったよ。  旧家で見た品は、さほどの掘り出し物じゃなかったな。ただ古い形の望遠鏡が一つ転っていてね。商売になる品物じゃないけど、おもしろそうだから、ちょっとのぞいてみたんだよ。  その家は海と山とに挟まれた高台にあって、展望がよくきく。  ちょうど太陽が沈む頃だったから、海はギラギラ輝いているし、その反射を受けて周囲がみんな光っている。角度によってはまぶしくて見えにくいところがあったな。  望遠鏡は結構倍率が高くて、遠くのものが手の届くほどの距離に見える。ボートを漕いでいるアメリカ人。その隣に日本人の女。どぎつい化粧をしているのまで、はっきりとわかる。望遠鏡をまわすと、今度は年取った女が山の中腹でなにやら畑仕事をしている。街では、若い娘がポストの前で拝むようにしてから手紙を放り込んだ。恋人にでも送ったのだろうか。  あちこち見ているうちに、突然、青い芝生の庭が映った。白いテーブルと白いデッキチェアーがあって、男が現われた。  手にはビールとジョッキ。ビール壜は汗をかいていて、いかにも冷たそう。なにかこう……贅沢って感じだったな。  男は案に相違して日本人だった。  ——どこかで見たような顔だな——  そう思ったけど、そのときはなにも気づかなかったよ。  コバルト・ブルーのシャツにベージュ色の半ズボン。サングラスを襟もとに挟んでいる。年齢は五十代のなかばくらい……。  ビールを注ぎ、口に運んで、クイクイと喉を動かして飲み干す。そして、フーッと満足そうに息をつき、デッキチェアーに体を預け、空を見あげている。  ——ああ、うまそうだ——  すぐそばにその男がいるような気がしたね。ビールを注ぐ音まで聞こえたように思ったよ。  ——いい身分だなあ——  まったくの話、あれほどうまそうにビールを飲むのを見たことがなかった。  ——それにしても……どこのどいつだ——  日本人はみんな貧しかったからね。  望遠鏡から眼を離すと、たちまち男の姿は消えてしまい、  ——はてな——  と、のぞいて見ても男の姿がない。それらしい庭が見えない。  ——変だな——  もう一度望遠鏡をあちこちに向けてみたけれど、いったん視界から消えた風景はもう捕らえられない。どんなに一生懸命捜してみても無駄だった。しばらくはキツネにつままれたような気分でながめていたな。  そのうちに空は薄暗くなり、町も暮れ、展望もきかなくなった。あきらめるより仕方がなかったよ。  とても不思議な体験だったけど、とにかくレンズの中の男がうまそうにビールを飲んでいたのが忘れられなくてね。  ビール党に転向したのは、あのせいじゃないのかな。  笑うかもしれないけど、あのとき以来ずーっと心のどこかで挑戦しているところがあってね。  ——あの男よりもっとおいしくビールを飲みたい——  ってね。  とにかく、あいつは最高においしそうに飲んでいたんだ。心になんの屈託もなく、優雅な気分で、一番おいしいビールを飲んでいたんだ。夏の夕日をあびながら……。  ——よし、オレは負けないぞ——  努力はしてみたけれど、なかなか勝てなかった。勝ったと思ったことがなかったよ。  でもネ、最近ようやくわかったんだ。  まあ、内輪の話だけど、去年、娘が結婚し息子が就職し、やれやれと思ったとたんに家内が死んでね。悪い女じゃなかったけど、口うるさくて、気詰まりだったな、一緒に暮していて……。たった独りになって、なんか今まで考えていなかった人生がこれから送れそうな気がして来たんだよ。  体はすこぶる健康だし、財産も一人で気ままに生きて行くくらいのものは残した。  会社をやめ、勧めてくれる人があって、つい先日鎌倉の海辺に小さな家を買ったんだよ。芝生があって、白いテーブルと白いデッキチェアーがあってね。  気分は最高だね。昨日の夕方は、コバルト・ブルーのシャツにベージュの半ズボン。いや、なんの意識もなくそれを着てたんだ。  そのスタイルで飲んだビールのうまいのなんのって、生涯で一番だね。  とたんに気がついたんだ。 「なんだ、あの男はオレだったのか」  無料コーヒー 「はい、ハンカチ」  サカイ氏が玄関で靴をはいていると、妻が四つ折りのハンカチを差し出す。ハンカチのあいだから伊藤博文公が渋い顔をのぞかせていた。  毎朝の習慣である。亭主の必要経費は一日千円也。サカイ家ではここ二年ばかりずっとその額に決まっている。昼食代が社員食堂で食べて三百円前後。タバコ代が二百円。残りがコーヒー代その他になる。月給日にはこれとはべつに三万円の小遣いを受け取る。不満はあるけれど、月給の総額を考えれば仕方があるまい。  それにしてももう少し節約ができないものか。毎日の千円札がそっくりへそくりになって残る方法はないものか。われながらスケールの小さい話だと思うのだが、サカイ氏はときどきそんなことを考える。  昼食代は外まわりの仕事が多いので、得意先でご馳走になることもある。思い切ってタバコをやめようか。それにしてもコーヒーはこのごろめっきり高くなった。タバコをやめるよりコーヒーをやめるほうが節約になるのだろうが、仕事のあいまにチョイと喫茶店のソファに背を預けてウエイトレスを観賞し、週刊誌をめくる、あのささやかな休息の味もサラリーマンには貴重なものだ。結局、毎日千円を妻からもらい、千円だけ使ってしまうよりほかにないらしい。  その日の昼さがり、サカイ氏はオフィスのデスクの前で書類の整理をしていた。時刻は午後三時、一息入れてみたくなる時間帯である。となりの席のシマノ氏がなまあくびを噛み殺した。 「なんとなく眠たい日だな」  と、サカイ氏が声をかけた。 「ああ、そうだね」 「コーヒーでも飲みに行くか」  言ったとたんに�しまった�と思った。  課長が聞き耳を立てている。いや、べつに勤務時間中にコーヒーを飲みに行ってはいけないと、それをきびしくとがめられるような雰囲気の職場ではなかったが、わざわざ課長に宣言してサボるわけにもいかない。 「うん、まあいい」  シマノ氏が曖昧につぶやく。  二人の様子を見ていた課長がニヤニヤ笑いながら席を立って、近づいて来た。  ——なにか言われるぞ——  サカイ氏は首をすくめた。 「サカイ君」  声は笑っている。小言ではなさそうだ。 「はい」 「コーヒーをただで飲む方法を教えてあげようか」 「はあ?」 「今すぐ地下の喫茶室へ行ってごらん。なんだったらシマノ君も一緒に行って来たらいい。十五分くらいボクが電話番をしていてあげるから」  目顔でうながすのでシマノ氏とサカイ氏は席を立った。  ——はて? 地下の喫茶店でサービスでもやっているのだろうか。そんな話、聞かなかったが——  小首を傾げながらエレベーターを降り喫茶店のドアを押した。 「いらっしゃいませ」  いつもと変った様子はない。 「なんかサービスしてんの? 無料でコーヒーを飲ませるとか」 「いいえ」  ウエイトレスは怪訝な顔で返事をするだけだ。 「課長にかつがれたらしいぞ」 「まあ、いいよ。少し休んで行こう」  十五分ほど雑談をして二人は店を出た。 「どうだった?」  課長に尋ねられ、 「いえ、べつに。いつもの通り一ぱい三百円取られましたよ」 「アハハハハ」  課長が愉快そうに笑った。 「暗算は得意のほうかね」 「いいえ」 「でもやさしい計算だからな。かりにキミたちの年収を七百万円としよう。ボーナスを別として計算すれば月給四十万円くらいだな。一方、一ヵ月に日曜が四回、祝祭日が月平均一回、年次休暇で一日くらいは休むだろう。一月を三十一日と考えてもキミたちの労働日はせいぜい月に二十五日以下……」 「はあ?」 「四十万円を二十五でわると、一日一万六千円の収入となる。働いている時間はせいぜい七時間だろうから、一時間の収入は一万六千円を七で割って二千三百円くらい。勤務時間中に喫茶店へいって、十五分ほど油を売っていれば、その十五分の給料は五〜六百円に相当する。なんにも仕事をしないで、それだけ収入があるんだから、つまりキミたちは無料のコーヒーを飲んでいるのと同じことになるんだよ。アハハハ」  課長はもう一度高笑いをした。  ころし文句 「いいですか、諸君。今月はぜひ一人あたり三人の新しいクライアントを獲得してほしい。ただし、筋のいいお客さんでなければいけない。クレジット業ではこれが一番大切ですからね」  営業課長が額の汗を拭いながら細い声で訴えていた。ハナダ氏はすみの席にすわってぼんやりとその声を聞いていた。  ——新しいクライアントなんか今さら獲得できるだろうか——  ハナダ氏が勤める日本セントラル・クレジット株式会社では毎年二回、言わば年中行事のようにこの通達がある。社員全員が知人友人を誘って日本セントラル・クレジットのNCCカードに三人まで加入させなければいけなかった。  毎年二回、同じ通達があるのだから現実問題として達成はむずかしい。もうたいていの友人知己には声をかけてしまった。とはいえせめて一人くらいはあらたに勧誘しなければ、カッコウがつかない。  ——もう伯母さんしかいないな——  伯母さんはハナダ氏の父の姉で郊外地の賃貸アパートにたった一人で暮らしている。どちらかと言えば偏屈な老人で、あまりつきあいやすいタイプではない。  もちろん以前にも勧誘したことがあった。父の三回忌のときにおそるおそるNCCカードに加入してほしいと頼んでみたのだが、 「あら、要するにクレジットと言うのは借金でしょ。お金もないのにものを買うなんて、私、大きらい。ほかのことならともかく、これは駄目よ」  と、キッパリ断わられてしまった。 �へ�の字に曲げた唇。梃《てこ》でも動かない様子。多分今度も同じことだろう。  ——でも、とにかくもう一度だけやってみよう——  加入さえしてもらえばそれでいいんだ。そのままカードを引出しの奥にしまっておいてもらってもかまわないんだし……。  ——もう半年も顔を見ていないな。手土産品でも持って訪ねてみようか——  伯母さんはハナダ氏の久しぶりの来訪を心から喜んでくれた。ビールを出し、夕食まで食べて行けと言う。 「でも、伯母さん、今日はちょっとほかに約束があるので失礼します」 「おやおや、それは残念ねえ。なにか用があって来たんじゃなかったの?」 「ええ。実は……以前にもお願いしたことなんですけど、うちの会社のクレジットに入っていただけませんか。毎年六人は勧誘しなくちゃいけなくて……」  とたんに伯母さんの顔が引きしまった。 「ああ、そのことね。前にもお断わりしたでしょ。私は借金でものを買うのが大きらいなの。これまでそれを信条にして生きて来たんですから」 「でも、クレジットは借金とはちがいますよ。使わなければいいんだから」 「いーえ、カード一枚でほしい品が手に入るとなれば、つい買ってしまうわ。それが恐ろしいの」 「現金を持ち歩くより安全ですよ。カード一枚で、どこへ行っても買物ができるんだから。旅行になんか行ったときは本当に便利ですよ」 「いいえ、私は旅行になんか行かないわ」 「…………」  押し問答をしているうちに、どうしてハナダ氏はあんなことを言ってしまったのか。ほんのジョークのつもりで言ったのだが、その言葉を聞いて伯母さんの態度が急に変わった。 「じゃあ、あんたがそこまで言うのなら加入してあげましょうかね」  瓢箪から駒といったところか。帰り道の足どりは軽かった。  伯母さんが死んだのは、それから二ヵ月もあとのことだった。  健康そうに見えたが、体はだいぶ弱っていたらしい。近所の人の話では、本人はしきりに「もうすぐあの世行きですよ」と冗談めかして言っていたとか。享年七十。長くわずらわなかったのだから、不足は言えまい。身寄りのないせいもあって、遺産はすべてハナダ氏のものとなった。貯金通帳に残った四百万円ほどが、その全財産であった。  奇妙なことに気づいたのは、それから間もなくだった。  通帳の貯金が少しずつ減って行く。だれかがどこかでおろしているらしい。NCCのカードを使って……。  どう調べてみても支払いの請求は正規の手続きを踏んでいる。NCCカードの解約を申し込んでも、その書類が途中で消えてしまう。何度やってみても……。  ——だれかがどこかでNCCカードを使っているんだ——。  ハナダ氏は忽然と思い出した。伯母さんにクレジット加入を誘ったときのことを。その時に告げたジョークのことを。 「うちのクレジット・カードはどこへ行っても使えるんですよ。天国へ行っても使えるんだから……」  蜜 柑  ドキン。ヤスコの胸が弾んだ。狼狽が心に広がる。  ——うかつだった。気づかないでいるなんて——  町の果物屋の店先。フルーツを買いに来て、われ知らずスイと青い蜜柑に手が伸びた。寒くなってから出廻るあのオレンジ色の蜜柑ではない。まだ緑色の皮をまとった蜜柑。皮をむくのに苦労するすっぱい蜜柑。ヤスコはけっして好物ではなかった。ここ数年食べたこともなかった。  その蜜柑をふと買ってみたいと思ったのは、なぜだろう? すっぱいものを食べたいと望んだ理由はなんだろう?  考えられることは一つしかない。もともと生理は不順のほうだから気にもとめずにいたけれど、指折り数えてみれば二ヵ月あまり途絶えている。ここ一〜二週間はなんとなく気分が冴えない。すっぱいものだけではなく、食べ物の好みも微妙に変化していた。  ヤスコは急いでアパートへ帰り、親友のノブエに電話をかけた。ノブエは二人の子を持つ母親だ。 「ねえ、やっぱりそうかしら?」 「うーん。公算は大ね。だれ? 思い当たることはあるんでしょ」 「あなたの知らない人よ。ねえ、食べ物の好みも変ったみたい。そんなこともあるのよね」 「もちろんよ。まるで別の人になったみたいに好みが変わることもあるみたいよ。ま、早くお医者さんにみてもらうことね。生むにせよ、生まないにせよ……」 「馬鹿ね、私、まだ独身なのよ」 「わかってるわよ。でも、あんた、わりと煮えきらないタイプじゃない。いつまでも独りでいちゃ駄目。彼に�赤ちゃんができたの�って言えば、それがきっかけで結婚が決まることもあるわ」 「ええ……」 「とにかくお医者さんへ行くことね」 「うん。じゃあ……ありがと」  電話機を置いてからもヤスコはそのままの姿勢で思案を続けた。本当に�赤ちゃんができたの�と言えば、彼は結婚に踏み切ってくれるだろうか。  ヤスコは首を振る。とてもそうとは思えない。  ——ヒロユキさんは、そんな人じゃない。ミノルのほうなら、ともかく——  ノブエには話せないことだったが、ヤスコは二人の男と同時に交際を続けていた。ミノルはずっと前からヤスコに首ったけ。ついつい情にほだされて体を許したこともあったが、ヤスコが本当に好きなのはヒロユキさんのほう。でも、そのヒロユキさんは冷たくて……。  ヤスコはハンドバッグの中から手帖を取り出して日記を見た。ここ数ヵ月の行動が簡単に書き込んである。Hはヒロユキさんのこと、Mはミノルのこと。  ——やっぱりそうね——  デートの時期から考えて、もしお腹の中に本当に赤ちゃんがいるならば、それはヒロユキさんの子……。十中八九、いや、百のうち九十九まで間違いはない。  ヤスコは翌日会社を休んで病院へ行った。ドクトルは努めて無表情に、 「妊娠してます。二ヵ月と少しですかな」  と告げた。商売がら患者が結婚している女ではないと見ぬいているのだろう。ヤスコの頬が火照《ほて》った。 「赤ちゃんができたわ。あなたの子よ」  ヒロユキを呼び出し、にがいコーヒーを飲みながらヤスコは告げた。だが、ヒロユキは他人事のように無表情だ。 「そんなこと言われたって困る。おたがいに納得ずくの遊びのはずじゃないか。オレは知らんよ。今日は忙しいから失礼」 「でも……」  結婚のことなんかとても言い出せる雰囲気ではない。  どうしよう。せっかく芽生えた命を無惨につみとっていいものかどうか。思い惑いながらアパートへ帰ると手紙が一通来ていた。ミノルからだった。 「ヤスコさん。あなたが好きでたまりません。思い切って言います。どうか僕の妻になってください……」  電話口でヤスコが話している。相手はノブエだろう。 「結婚することに決めたわ。彼の名前? ウフフ、ヤマダ・ミノルって言うのよ。うん、べつに堕ろす必要なんかないじゃない」 「よかったわね」 「ええ」  本当によかった。不思議なことに結婚を決めたとたんにミノルが好きになった。冷たいヒロユキよりずっと……。  ヤスコはつぶやく。 「本当ね。妊娠すると好みが変わるって……」  テーブルの上には青い蜜柑がのっている。  こわい話  その女とめぐりあったのは、今から三十年以上もむかし、歯科医の待合室だった。  虫歯が悪化して骨髄炎を起こし、どうにもやりきれないほど痛い治療を受けたあとだった。私は貧血を起こし、治療のあとしばらくは、待合室のソファに寝転がっていなければいけなかった。 「どうかなさいましたか」  やさしい声が響いて、目をあげると女が笑っている。ひとめ見たときから美しい人だと思った。年齢は三十歳前後。どこかの若奥様といった感じ……。成熟した女のあやしさが微笑の中に漂っていた。 「貧血を起こしちゃって」  私は二十歳になったばかり。男としてはあまりみっともいい状況ではない。おおいに恥じらいながら答えた。そんな様子が、彼女の母性本能を刺激したのだろうか。 「それは大変。もうよろしいの?」 「まあ、なんとか」 「お送りしてあげましょ、車で来ておりますから」  女は運転手つきの車で通っているらしかった。  誘われるままに車に乗ったが、あれはどういう女だったのか。 「コーヒーはおきらいかしら」 「いえ、べつに……」  あまり飲んだことがなかった。 「今、ホテルにおりますの。ちょっとお寄りになりません?」 「はあ……」  ホテルなんてところへも行ったことがなかった。  狐につままれたような気分でいるうちに話は妙な方向に進んで一時間後にはその女とベッドの中で抱きあっていた。まっ白い肌。しなやかな肉づき。今でも忘れることができない。  あれから三十余年。私もいろいろな女を知ったが、あれほどすばらしい人にはまだお目にかからない。あの女とすごした一時間ほど甘美な時はない。  だから……あのあと工業大学を卒業して技師になり、苦心のすえやっとタイム・マシンを完成したときに、まずまっ先に思ったのは、あの女とめぐりあうことだった。  ——もしかしたら二度とこの世に戻って来られないかもしれない——  そんな不安もあったが、あの女に会えるものなら、それでもかまわない。命なんかいつまでも続くものではない。未来永劫にあの女と抱きあっていられるものなら、私にはなんの不足もない。  私はカプセルの中へ入って機械の目盛りを過去の日時にあわせた。 「これでよし」  スイッチ・オン。  ブルブルブルブル……。白い時間が流れ、タイム・マシンはみごとに作動を始めた。 「OK。三十数年前のあの日に戻ったぞ!」  だが……機械にはまだ少し不十分なところがあったらしい。  あれっ? ほんの少し時間を古く戻してしまったぞ。  ブルブル……ガツン。いけねえ、機械は過去に戻ったところで故障。どうやら未来永劫に私はこの時間の中に置かれているらしい。  気がつくと、私は治療室のいすにすわり、骨髄炎の治療を受けていて……。  鬼はうち 「とし豆はいかがですか。とし豆はいかがですか」  会社からの帰り道、カネコ氏は駅前商店街を通り抜けながら商店の呼び声を聞いた。  とし豆? ああ、そうか。節分にまく大豆《だいず》のことか。とすると、今日は節分、明日は立春。 「へえー、もう二月になるのか」  ついこのあいだカレンダーを新しく替えたばかりなのにもう最初の月が飛び去って行く。  春が来て夏が過ぎ秋に変って冬になり、また一年がまたたくまに通り過ぎて行ってしまうのだろう。そして人間は年を取り、老いさらばえて死ぬ。なにかこの世に生きたあかしを残せないものか。  そう考えたとき、カネコ氏はいささか唐突な連想ながら、  ——家がほしい——  と思った。  いまやサラリーマンが一戸建ての家を持つのは一生の大事業である。文字通りライフ・ワークなのだ。定年まで働いて子どもに家の一軒くらい残してやらなければ親として肩身がせまい。  カネコ氏は三十四歳。一人息子のキヨシは四歳。定年だの老後だの子孫へ残すものだのを考える立場ではまだないのかもしれないが、当節はそんな暢気なことばかり言ってはいられない。とりわけ家でも持とうと思うなら三十代から考えなければならない。  今はマンション住まい。これも去年ようやく手に入れたものだ。借金はタップリ残っている。 「ごめんください」 「はい、はい」 「豆を一袋くれないかな」 「はい、どうぞ」  でも、去年の豆まきは、賃貸の小さなアパートだった。  今年は2LDK。せまいながらも自分の財産だ。キヨシと豆まきをするのが楽しい。  親馬鹿かもしれないが、キヨシは頭のいい子どもだ。まだ言葉だってそうたくさん知っているわけでもないだろうに、いろいろ推理を働かせておもしろいことを言う。ついこのあいだも鶏の絵を指さして、 「名前はなんていうの?」  と尋ねたら、しばらく迷っていたけれど、 「カネコ・ニワトリ」  と呼んだ。 「これなーに?」と聞かれたら「鶏」と答えたのだろうが「名前は?」と言われて困ってしまったのだ。熟慮のすえ、自分の苗字をつけて「カネコ・ニワトリ」と言ったところがおかしい。秀逸だ。あのときの表情が目に浮かぶ。もしかしたら天才かもしれないぞ。どこの親もみんな一度はそう思うのだろうが……。 「鬼は外。福は内」  あちこちの窓から声が聞こえて来る。どこの家でもやっているらしい。こんなことで不幸が逃げ出し、幸福がやって来るとは思わないが、子どもたちの甲高い声を聞いていると、とても愉快な気分になる。 「ただいま」 「おかえりなさい」 「キヨシはどこ? とし豆を買って来たぞ」 「そのへんにいるんじゃないかしら。今日、保育園でも豆まきをやって来たらしいのよ」 「それじゃ、なおのこと家でもやらなきゃ」  話しているところへキヨシが現われ、 「パパ、おかえりなさい」 「よし、今から豆まきをするぞ」 「豆まき? いいよ」 「窓をあけろ」 「寒いよ」 「寒くてもあけなきゃ駄目だ。鬼を追い出すんだから」  2LDKの窓をあけ放し、まずパパが大声で、 「鬼は外。福は内。キヨシ、さ、お前もやってみろ。豆を持って勢いよくぶっつけるんだぞ」 「うん。お願いすれば、いいことがある?」 「あるとも」  キヨシは袋の中へ小さな手を入れ、豆を握って投げる。 「オニワウチ、オニワウチ」  パパが驚いて、 「違う。オニワウチじゃない。オニワソトだ」  しかし、キヨシは首をかしげて、 「僕、お庭のあるウチがほしいんだもン」  蚕 食  喜びと悲しみがいつも交互にやって来る。僕の人生はどうやらそんな仕組みになっているらしい。  妻の死病を知らされたのが一年前。  それから三ヵ月たって、年来の研究に成功のめどがついた。  ところが研究所の阿呆所長に呼び出され、 「いまごろ蚕《かいこ》の繁殖なんて古いよ、絹なんか輸入したほうがずっと安い。それに、君の研究は原理的には、すでに証明されつくしていることなんだ」  と、にべもなく実験の中断を申し渡された。  そんな馬鹿な。いくら原理がわかっていたって科学はそこが終点じゃない、とりわけこの研究は最後までやってみなければ本当の価値はわからない。  所長と言い争い、 「じゃあ結構です。自分でやります」  と辞表を叩きつけた。もともと待遇のわるい三流の研究所。いつか罷《や》めようと思っていた。  病床の妻だけが、 「せっかくの研究じゃない。最後までキチンとやったらいいわ」  と慰めてくれた。 「ありがとう。きっとやるさ」  でも成功する日まで和枝が生きていてくれるかどうか……。  マンションの一室を改造して実験室を作った。朝から晩まで研究を続けた。腹が減ると近所の食堂へ行って食事をとる。三日に一度は足を伸ばして病院へ行った。 「どう、ご飯をチャンと食べてる?」 「うん。不自由はしていないよ。今は研究に夢中だからね。それよりあんたのほうだ。早く元気になるといいな。今日は顔色がいいぞ」  実際は日増しに妻の容態はわるくなっているのだが……。 「ええ。今日は少し楽みたい。実験のほうはどう? 進んでいる?」 「もちろんだ。絶対うまくいくさ」  こっちのほうなら自信がある。なにしろ五年も前から研究していることなんだから……。  いや、もっと昔からかな。  子どもの頃、知合いの農家で蚕を飼っていた。何匹か分けてもらって自分でも飼ってみた。とてもかわいらしい。嫌いな人もいるだろうけれど……。そのうちに付近で宅地の造成が進み、桑の木を見つけるのがむつかしくなった。ずいぶん遠くの畑まで桑を取りに行かなければならない。  ——どうして蚕は桑でなくちゃあ育たないのかな——  それが疑問の始まりだった。  大学の農学部に入り、生化学を勉強しているうちに昔の疑問が心に戻って来た。  ——蚕は桑でなくてもいいのかもしれない——  類似の成分からなる葉っぱはほかにいくらでも存在する。蚕の栄養という面からだけ言えば、ほかの葉っぱでなんの不足もないはずだ。  ——要は、蚕が自分で桑しか食べないこと。ほかの葉っぱを食べようとしないこと。それが問題なんだ——  蚕の頭の中に、桑の葉だけが自分の餌だと考えるシステムができあがっているのだろう。  だったらなにか特殊な薬液を発見し、それを桑以外の葉っぱに散布する。そうやって蚕に桑だと思い込ませればいいじゃないか。  原理はやさしいが、ここから先がなかなかむつかしい。  桑の葉の特質を分析し、そんな薬液を作るまでに五年の歳月がかかったというわけだ。 「うまく成功したよ」 「よかった。やっぱりあなたはすばらしい人よ」  病院のベッドの脇に、桜やホウレン草の葉を敷いた養虫箱を持ち込み、妻の眼の前で研究の成果を見せてやった。  霧吹きで薬液を吹き散らし、乾いたところで蚕を入れる。みんなサクサクと食べ始めた。みるみるうちに桜やホウレン草の葉が減って行く。 「あとは論文を書けばいいのね」 「そう」 「みんな驚くわ」 「まあな」  僕は曖昧に答えた。  実はもう一つ、確かめておきたいことがあった。実験を進める途中で気づいたことがあった。それは……やっぱり栄養価の高い葉っぱを食べさせたときのほうが蚕は早く育つ。体もグンと大きくなる。したがって繭《まゆ》も大きい。 「卵ほどの繭が作れるかもしれないぞ」 「本当に?」  妻は細い腕を毛布の上に差し出し、掌を開いて、まるでその上に大きな繭が転がっているかのような仕ぐさをする。その動作がとても弱々しい。  ——急がなくてはいけない——  僕は心の中でそう思った。  つぎつぎに栄養価の高い葉っぱを食べさせてみた。  繭は少しずつ大きくなる。  それに歩調をあわせるように妻の容態は悪化する。  とうとう最期の日がやって来た。  僕は新しい繭を持って病院へ走った。 「ほら、ここまでできたぞ」 「こんなに大きな繭……」  呟くように言って和枝は眼を閉じた。  妻には身寄りがいない。僕にも知人は少ない。亡骸《なきがら》を家に運び、たった一人で別れの夜を過ごした。  ——棺にはいっぱいの繭を入れてやろう——  夜は更け、さまざまな思い出が胸を駈けぬける。  初めて会ったとき……。  初めて抱いたとき……。  和枝の肌は上等の絹みたいに滑かだったな。突然、激しい衝動にかられて僕は和枝の着衣を剥がし始めた。別れる前にもう一度だけ妻の体を眼に留めておきたかった。  病魔はさほどひどくは妻の体の美しさをそこなってはいない。とりわけ胸のあたりは白く、ふっくらと盛りあがっている。下腹部は青く光り、黒い恥毛が形よく生い繁っている。  ——研究ばかりしていて、充分には愛してやれなかった——  後悔が胸をかすめる。 「いいのよ、それで。あなたはもっとすばらしい研究をなさって。なにか手助けをしてあげたかったのに……」  頭の中にそんな声が響く。  手助け……か? その声に誘われるように奇妙な考えが浮かんだ。  こうなると、妻の死どころではない。思考はたちまち妻の死を離れて途方もない方角へと飛翔を開始してしまう。僕の悪い癖。研究者魂……。  和枝は許してくれるだろうか。  うん、きっと許してくれるだろう。  僕は妻の亡骸を実験室へ運んだ。  初めは、ほんの気まぐれでやってみたことだった。確信があってのことではない。  だが、僕の直感は当たっていた。 「和枝、助けておくれ」 「ええ、いいわよ」  夜ごとにそんな会話を交わした。  いつのまにか妻の死から五日たっていた。部屋には臭気が立ち始めた……。  たしかに……これは科学的な事実だ。どんな葉っぱよりも動物性の蛋白質のほうが栄養価が高い。エネルギーをたくさん含んでいる。だから蚕はどんどん大きくなる、太くなる、長くなる。  和枝の青い体に霧吹きを使ってたっぷりと薬液を散布した。蚕たちはなにも知らずに蚕食を開始する。  サクサクサク、サクサクサク……。  音は日ごとに高くなる。夜ごとに荒くなる。 「和枝、君のおかげだぜ」  すばらしい発明だ。そう。悲しみのあとにはきっと喜びがやってくるんだ。  ——大きな繭ができるぞ。滑らかな絹ができるぞ——。  今ではソーセージより太い蚕たちが何十匹、何百匹と群がって、サクサクサク、サクサクサク……。  ほら、実験室の闇から音が聞こえて来るでしょ、ね?  猫の事件  ことの始まりはオレの懐《ふところ》におあしがなかったから……。  懐に銭がないくらいだから貯金なんかあるはずもない。たった一冊の預金通帳の残高は限りなくゼロに近い二十八円也。おろしてみたところでなにかの役に立つという金額ではないね、これは。金と名のつくものは借金だけ。これだけはあっちにもこっちにもわんさとあった。  どうしてそんなに貧乏なのかって?  はい、はい、それを説明するにはなんの苦労もいらないね。  世の中、金を儲ける方法を見つけるのは楽じゃないけれど、なくす方法ならいくらでもある。  まず勤めていた会社が傾いた。社長は人件費を節約しなければなるまいと考えた。考課表を調べて、だれか勤務成績のわるいやつはおるまいか。いの一番にオレの名前があがって、たちまちこのハンサムな首が飛んだね。労働組合なんて、そんなしゃれたものとは縁のない会社だから話は早いよ。オレだってあんな安月給の会社、なんの未練もなかったぜ。「バイ、バイ」てなもんよ。  失業保険とアルバイトでなんとか食いつないでいたけれど、スキーに行きたい、新型のステレオがほしい、ディスコで踊りたい、女の子におごれば結構銭コがかかるしさあ、洋服だっていつも同じ物着てたんじゃカッコウがつかないぜ。サラ金でちょいと借りたりしたもんだから、あとはもう貧乏に加速度がついちまったね。時速二百五十キロ、飛んでるように走る、ビュアーン、ビュアーン……。これ新幹線の歌。ちょっと古いか。  貧乏になったところで考えた。  ——なにか簡単におあしを手に入れる方法はないものか——  宝くじを買う。せこい考えだよ。宝くじに当たるより自動車に当たる率のほうがよっぽどでかいそうじゃないか。オレ、ああいう当てにならない話って好きじゃないんだ。  銀行強盗。そりゃ世間を見まわして一番銭コのあるところといえば銀行だけど、むこうも用心しているからねえ。ピストルでも持ってりゃやりようがあるけど、出刃包丁なんかじゃ冴えないぜ。オレ、自信がないよ。暴力は好きじゃないんだ。  結婚詐欺。手間ひまがかかるんだよなあ。そのうえ女の子に「おそれながら」と警察に訴えられたら、すぐにつかまっちまうもんなあ。相手に顔を覚えられるの、ヤバイぜ。  顔を見られずにうまうまと大金をせしめる方法となれば……うん、うん、前から頭の隅にあったんだけどね、やっぱり営利誘拐だよなあ。  どこか大金持ちの家の子どもをさらって来て、公衆電話からジィージャー、ジィージャー…… これはダイヤルをまわす音。 「子どもの命が惜しかったら、一千万円用意しろ。警察になんか言ったら子どもは絶対命がないぞ」  逆探知なんかされたらたまらないからな。長っ話をしてはいけないよ。こっちはいろいろ映画やテレビで見ているから知っているんだぜ。  しかし、このごろ、誘拐されるほうも映画やテレビを見ているからな。結構いろいろ知っているんだよなあ。  たいていは警察に相談するね。  警察も人質の安全を考えて極秘裡に捜査本部を設ける。新聞記者も協力して知らんぷり。 「しめ、しめ。オレの脅しがきいて警察には言わなかったな」  なんて思っていると、えらいめにあってしまう。刑事がいたるところに網を張っていて、油断大敵、手錠がガチャリ。  一番むつかしいのは、現金を受け取るところなんだな、あの犯罪は。オレ、ひまなときにはゴロンと寝転がって、いろいろ考えているんだ。たとえば、川の上に模型のボートを浮かべておいて、そこに身代金を積ませて、あとはリモコンで引き寄せる。  待てよ、一千万円となると模型のボートじゃ無理かなあ。一万円札でどのくらいの大きさがあるんだろう。オレ、見たことないからわからないんだ。ま、一千万円じゃなく五百万円でもいいし……場合によっては百万円でもいいな。昔からどうも考えることのスケールが小さいんだよなあ、オレは。  縄をつけた袋に身代金を入れさせ、その縄を川のむこうから引っぱるって方法もあるな。たしかフランスかどこかで誘拐犯がやった手口だけど……。これは使えるかもしれない。しかし、警察はやっぱり川のむこう岸にも張り込みを置いておくだろうな。無理、無理。  うん、そうか。小学生くらいの子どもを使って取りにやらせる方法もあるな。警官がその子を呼びとめたら、こっちはずらかればいいんだし。  そう、そう、五反田の公園にいつも日なたボッコをしている浮浪者がいたっけ。ちょっと薄馬鹿らしいけど、あんパンをやれば、走り使いをする……。あれを使うか。  一番いいのは、とにかく警察に相談させないよう、うまく脅せばいいんだ。  このごろの誘拐犯は、人質をあっさり殺したりするけれど、あれはよくないね。いくら犯罪者だって良心のかけらくらい持たなくちゃあ。  それに……この世に完全犯罪なんてものはないと思ったほうがいいね。小説でも映画でもたいてい犯人は捕まる。どんなに綿密に計画を立ててみたところで、なにかの手違いで見つかることもあるしな。誘拐殺人は大罪だからね。軽くて終身刑、下手をすればこっちが絞首台でブランコをする羽目になるんだよな。オレ、いやだよ。たったひとつしかない命だもんなあ。  それに……オレ、お化けも少し信じているとこあるからなあ。人殺しなんかすると、それからずっと夜道をひとりで歩けないよ。将来、結婚して自分の子どもを持って、ある日ヒョイと見ると、わが子がいつか殺した子どもの顔。 「ヒェーッ。こいつ、血迷ったな」  殴り殺すと、これが眼の錯覚。わが子が死んでいる……。お化け映画じゃたいていそういう仕組みになっているだろ。あれ、作り話だとは思うけれど、現実感あるよな。もしもってこともあるからなあ。  ——あ、いけねえ——  オレ、自動車の運転ができねえんだったっけ。誘拐ってのは、いくら相手が子どもだって車がないとむつかしいのと違うか。さらったとたんにバタバタあばれられたら始末におえないし……。  やっぱり誘拐もむつかしいか……。  薄汚いアパートで寝転がってあれこれ妄想を描いていてもつまらない。頭をかくと、ふけばかりがボロボロ落ちる。  ——ああ、かゆい——  頭を使うと、脳味噌が汗を出すのかな。あんまり科学的じゃないけど、やたら頭がかゆいので、手拭いをヒョイと肩にかけ銭湯に出かけた。  子どもたちがスケート・ボードで遊んでいる。邪魔だ、どけ、どけ。魚屋の脇には木箱が置いてあって、そこが陽だまりになっている。灰色の猫が気持ちよさそうに眠っていた。こいつは魚屋の飼い猫ではない。なんとなくこのへんに住みついて、魚屋のあまり物をもらって生きている。気楽なもんだね。  しかし、いつも天気のいい日ばかりとは限らないぞ。寒い日はどうするのか。  ——同じ猫に生まれるなら、いい家に飼われるほうがいいなあ——  そう思ったとたん、突然すばらしいアイデアがひらめいた。  家庭用電気製品のメーカーでアルバイトをしていたとき、目黒区のりっぱな家にテレビを届けに行ったことがあったっけ。  七十近いばあさんがたったひとりで住んでいて、やけに用心のいい家だった。テレビを運び入れながら、そこらへんの家具やら置き物やらを眺めると、みんな値段の高そうなものばっかり。 「だいぶ金持ちらしいな」  と相棒に言ったら、 「知らんのか。ああ見えても、ここんちのばあさん、目黒区でも何番目かの金持ちなんだ。週刊誌に出てたよ。お金はあるけど、子どもはいない。死んだら財産は全部福祉施設に寄付するんだってサ」 「どのくらいあるんだ?」 「なにが?」 「財産」 「わからん。週刊誌には書いてあったんだろうけど忘れちまった。屋敷だけでも何億だろ。二十億くらいはあるんじゃないのか」 「親戚はだれもいないのか」 「遠い親戚くらいあるかもしれんけど、そういうのに譲る気はないんだろ。だれも近しい者がいないから猫を子どもみたいにかわいがっているんだ。猫より自分が先に死んだらどうしようって、それだけが心配なんだってよォ」 「へーえ」  あのときはつくづくもったいない話だと思ったね。  言っちゃあわるいが棺桶に片脚つっ込みかけたばあさんがいくら金を持ってたって、そうたくさん使い道があるはずがない。かわいがっている猫に毎日|鯛《たい》の刺し身を食べさせたってたかがしれている。  二十億円ていうのは、どのくらいの金なんだ?  一年に利子六分の定期預金に預けると、利子だけで一億二千万円か。ひと月に一千万円ずつ使ったって元金は減らない計算になるよなあ。  一ヵ月分でもいいからオレのほうにまわって来ないかなあ。ばあさんと違って、こっちはいくらでも金の使い道はあるんだよな。  あのときは、ただうらやましいと思っただけだったが、今、木箱の上で眠っている猫を見ていたら、急にすばらしい考えが浮かんで来た。  ——待てよ、待てよ——  ここが思案のしどころだ。あわてる乞食はもらいが少ない。  銭湯へ行き、湯船につかって、さらにこのアイデアを練り直した。  風呂の中ってのは、血のめぐりがよくなるからものを考えるのにはいいんだね。ほら、ギリシアの……アルミニウムじゃない、そう、アルキメデスが、 「発見した!」  風呂から裸で飛び出した話があっただろ。あれ、どういう話だったかな。ま、この際、関係ないか。  オレは銭湯を出ると、いったんアパートに帰り、  ——ちょっと下見に出かけるか——  散歩にでも行くような恰好で目黒まで足を伸ばしたってわけ。  屋敷の周囲をひとめぐりして、それからさりげなく近所の噂を聞いてみると、おばあさんの猫好きは大変なものらしい。�チャコ�って名の茶色い雄猫がいて、御齢《おんとし》五歳くらい。ただの薄汚い猫だが、ばあさんにはよっぽどかわいく見えるらしい。かわいがって、かわいがって、文字どおりの猫っかわいがり。チャコが病気にかかったときなんか犬猫病院の待合室で、 「どうぞチャコのかわりに私の命を取ってください」  しくしく、わあわあ泣いていたそうな。こいつはうまいぜ。  下見を続けていたら、うまいぐあいに、ばあさんがチャコを抱いて、近所の雑貨屋に行くのを目撃した。 「奥様、いつもお元気ですねえ」  雑貨屋のかみさんも相手が大金持ちだからやけに愛想がいい。 「はい、はい、おかげさまで」 「チャコちゃんもいいご機嫌ね」  畜生にまでお世辞を使っている。猫のやつは、薄目をあけてジロリと雑貨屋を睨んでいたぜ。 「でも、このごろ、チャコは寝不足なのよ。ね、そうでしょう」  へえー、猫の寝不足なんてあるのかな、年中眠っているくせに。 「あら、そうなんですか」 「裏で工事をやっているでしょ。ガス工事かしら。�うるさくて眠れない�って、こぼしていますのよ」  オレは首を傾げたね。だれがいったい「うるさくて眠れない」ってこぼしているんだろう?  雑貨屋のかみさんは、さして不思議そうな顔もしないで、 「あら、あら。それはかわいそうね。でも、あの工事は今月でおしまいよ。あと四日の辛抱ですから許してやってくださいね」  と猫に話しかける。  屋敷のばあさんも、胸に抱いた猫にむかって、 「あと四日ですってサ。我慢しなさいね」  とたんに猫のやつ、 「ニャーン」  と鳴きやがった。 「�仕方ない�って言ってますわ」 「本当に奥様は猫の言葉がよくおわかりになるから」  ガムを買いに来た子どもが、 「おばちゃん、本当に猫の言葉がわかるの?」  目をくりくりさせてたじゃないか。教育上よくないよ。 「ええ。自分の子どもと同じようにかわいがっているから、自然と猫語がわかるようになるのよ」 「そうでしょうとも。本当に奥様はチャコちゃんをかわいがっていらっしゃるから」  屋敷のばあさんは、猫とそっくりの顔をして目を細くしていたね。どうでもいいことだけど、動物を飼っている奴って、どうしてその動物と同じ顔つきになるのかな。  まあ、いいさ。こっちとしては、ばあさんが猫をかわいがっていればかわいがっているほど好都合なんだから。  ここまで話せば、オレの計画もだいたい見当がつくだろうな。  そうよ、その通り。  人間の子どもを誘拐するとなると、話が大袈裟でいけないよ。自動車でも持っていないと、なかなかむつかしいしな。  さっきも言ったろ。人質を殺してしまうのは、オレの趣味じゃないんだ。アパートに子どもを軟禁しておいて「助けて」なんて叫ばれたらことだからなあ。その点、猫ならどうとでもなる。たとえ人質を……いや猫質って言うのかな、これは。そいつを殺したところで殺人犯にはならないですむ。警察だって猫の誘拐事件じゃ本気で取りあってくれないぜ。こりゃ間違いないね。いくら大金持ちの家の猫だって……。  しかし、ばあさんにとってはわが子と同じくらい大切なペットなんだからな。こいつがさらわれたとなれば、ただじゃあすまないね。  な、なかなかうまい計画だろ。これ、オレの発案だからね。無断転用を禁ず。このアイデアをほかで利用するときには、ちゃんとアイデア料を支払ってほしいね。  ばあさんの家の電話番号は、もちろんあらかじめ調べておいた。  あとは猫を誘拐するだけ。  バスケットをばあさんの家の近くの木陰に隠し、ジョギングをするようなふりをして様子をうかがっていたら、早くもチャンス到来。神様がオレの味方についているねえ。日ごろの心がけよ。もう最初の日からチャコ様がお屋敷の門柱の上で日射しを受けて眠っている。  付近に人目のないのを確かめて、 「こら、チャコ、チャコ」  と、猫なで声をかければ、チラリと胡散《うさん》くさそうな顔でこっちを見たけれど、なにせつね日ごろからかわいがられているから人見知りをしないね。育ちのよさだ。その点、野良猫なんてやつは猜疑心《さいぎしん》が強いからいけないよ。  手を伸ばすと、敵もさすがに不穏な気配を感じて逃げようとしたが、こっちは逃がしてなるものか、うまいぐあいに片足つかんで引きおろした。  とたんに猫はさかさに吊りさがり、 「シャーッ」  歯をむいて爪を立てるのを、グイと胴体をつかんで抱きしめ、うん、軍手をはめておいてよかったぜ。猫のやつ、爪が手袋の糸にからんで反抗もできない。そのすきに横抱きにしたまま小走りに木陰に行き、かねて用意のバスケットに押し込んだ。あとはさりげなく現場を立ち去るだけ。  猫のやつ、中であばれていたけど、都合のいいことに鳴き声をあげたりはしなかったぜ。  めでたく猫質をとらえたのが午後五時二十分。はや日も沈みかけ、今日の日程はこれにて終了。猫をアパートの押入れに隠し、翌日の朝まで待った。さぞかしあのばあさんは気を揉んでいるだろう。  ——待てよ、猫はさかりがつけば夜通し帰らないこともあるか——  それほど心配していないかな。いずれにせよ電話をかけ「誘拐したぞ」と告げれば、びっくり仰天。あとはこっちの意のままだ。  翌朝はみごとに晴れあがり、まことに幸先《さいさき》がいい感じ。午前九時、銀行の開く時間を待って、第一回目の電話をかけた。  ジィージャー、ジィージャー、公衆電話のダイヤルをまわし、ばあさんの声が、 「もし、もし」  と聞こえたところで、 「猫が帰らないだろ。オレが誘拐したんだ。身代金は……」  一千万円と言うつもりだったが、とっさに猫の身代金としてはチョイト高過ぎると思った。五百万……。いや、三百万……二百万くらいかな。なんだか弱気になってしまって、 「百万円だぞ。すぐに用意しろ。警察になんか言ったら承知しないぞ。猫くらい殺すの、わけないからな、第一、警察になんか言ったところで猫の誘拐事件なんかまじめに取り扱ってくれないぞ。やめておくんだな。さ、百万円用意しろ。いやなら猫はお陀仏だ」  と、すごんでやった。  なさけないことに、すごんでいるはずなのに膝がガクガク震えちまった。オレ、なれていないからなあ、こういう仕事。 「チャコを殺さないで。お願い……」  よし、よし、むこうはたちまち泣き声になったぞ。ばあさんはすぐに事情を察したらしい。ものわかりのいい人だ。 「金を用意さえすれば、殺しやしねえさ。警察になんか言うなよ。どの道相手にされないぜ。そんなことしたら猫はあの世行きだからな」 「チャコの声を聞かせて」 「今はここにいねえよ。大丈夫、まだ生きてるってば。さ、銀行に行って金を用意しな」 「百万円なら銀行に行かなくてもここにあります」  くそっ! やっぱり五百万円くらい要求するべきだったかなあ。われながら考えることがせこくてなさけない。しかし、今さら金額をつりあげるわけにもいかないし……。 「じゃあ、百万円を封筒に入れ風呂敷で包め。今すぐ目黒駅前の�富士�という喫茶店へ行け。そこで待ってろ。いいか、見張りはチャンとつけてあるんだからな。警察に言うなよ、ほかのだれかに話したら猫はキュッだぞ。あんたひとりで駅前の�富士�へ行け」 「だれにも言いません。チャコは殺さないで」 「わかったよ。命令通りにすれば殺しやしない。いいか、百万円を包んで、すぐ駅前の�富士�へ行け」 「目黒駅前の�富士�ですね。すぐにわかりますか」 「改札の駅員にでも聞け」 「はい、はい」 「だれにも言うなよ」 「絶対言いません」  オレはすぐにアパートを出て五反田の公園に向かった。ここには頭の少し弱い浮浪者がいつもボンヤリとすわっている。これも充分下調べをしておいたことだ。  この男はあんパンが大好きで、 「あんパンを買ってやるぞ」  と言えば、どんな仕事でもする。  こいつに身代金を取りに行かせる計画……。  喫茶店に電話をかけ、ばあさんを呼び出し、目黒駅前のポストのところに来るように命じた。  浮浪者のおっさんには、 「いいか。あんパンを買ってやるから、目黒駅前のポストのところへ行って、おばあさんから風呂敷包みをもらって、ここへ戻って来い」  と命じた。  頭の弱い男だが、このくらいの用はなんとかたせる。 「うん。わかった」  ふらふらと歩いて行くのを見え隠れに尾行して……そう、そう、そこのポスト、そこに立っているばあさんだ。うん、風呂敷包みをもらって早く戻って来い。道草なんかするなよ。なにをよそ見しているんだ、山手線の電話なんか今さらめずらしくもないだろ。見物してることなんかないぜ。急げ。そう、そう、あんパンが待っているんだから。  まさか警察が尾行しているんじゃあるまいな。うまいぐあいに公園には子づれのじいさんがいるだけ……。あいつは刑事じゃないね。あやしい人影は見当たらない。  ——もう五分だけ待ってみようか——  あのばあさん、オレの命令を忠実に守ったらしいぜ。警察には言わなかったな。それが賢明ってもんだぜ。あの世まで金を持って行けるわけじゃなし。施設に寄付する金が百万円やそこら減ったって、どうってことないもんな。それで、かわいい猫ちゃんの命が助かるなら�御の字�じゃないか。  ——しかし、百万円は安過ぎたかなあ——  五百万円だってスンナリ出してくれたかもしれないなあ。ほとぼりのさめるのを待ってもう一回やるか。しかし、ばあさんも今度は用心して猫を外に出したりしないだろうな。  ——さて、警官も現れないようだし——  まずは目先の百万円をしっかり手に入れることが先決だね。 「やあ、どうもご苦労さん、お礼のあんパン買っておいたぜ」  あんパンを渡し風呂敷包みを受け取り、そのまま足早に公園を出て、あとは一目散に走ったね。  三十メートルほど走ってうしろを振り返ったがだれも追いかけて来ない。狭い路地を抜け大通りに出てタクシーを拾った。  風呂敷をあけ、中の封筒を確かめれば、あるぞ、あるぞ。わが親愛なる一万円札が百枚。  ——こんなに簡単に成功するんだったら、もっとふっかければよかったなあ——  またしても同じ後悔が胸に脹んで来る。  ——まあ、仕方ないさ——  欲張るとろくなことがないからな。  アパートへ帰ったところで、もちろん押入れの中の猫をバスケットに移し、目黒駅の近くまで連れてって逃がしてやった。  約束はチャンと守らなきゃ。オレ、小学生時代、道徳はいつも5だったんだ。犬と違って猫はチャンと家まで帰れるのかな。はぐれちまったらかわいそうだが、まさか家の前まで連れて行くわけにはいかないからな。  猫のやつ、オレの手を離れた瞬間、横断歩道を走り抜け、ちょいとこっちを睨んでいたが、それからは自信ありげな足取りで逃げて行った。  あのぶんならなんとか帰り着くだろう。やれやれ、これにて一件落着。  思いがけず手に入れた百万円。金額に多少不足はあるけれど、初仕事としては上出来だろう。いい手触りだねえ。いい匂いだねえ。  ばあさんはやっぱり警察になんの報告もしなかったね。新聞のどこを捜しても猫が人質に取られた誘拐事件の記事は載っていない。  われながらすばらしいアイデアだったぜ。犯罪ってものは、このくらいみごとにやらなくっちゃあ。アルセーヌ・ルパン、怪人二十面相。要は頭の使いようさ。考えれば考えるほど、みごとだもんね。胸がスーッとするよ。  ばあさんは今ごろ猫が帰って来て大喜びしているだろう。たまには刺激があったほうがいいんだ。猫が一層かわいくなるからな。金のことだって何億円も持っているんだから百万円くらい目じゃないよなあ。こっちもだれかを殺したり傷つけたりしたってわけじゃない。犯罪としては、理想的な犯罪。文部省推薦。道徳教育のたしになるような犯罪だね。まったく。  ——さて、使い道だが——  二十万円ほどを借金の返済に使い、あとは少しずつ大事に使おう。無駄使いはいけないよ。 「今夜は新宿のキャバレーにでも行くかな」  三日たって、今日はどこへ遊びに行こうかと思って玄関を出ると、急に変な男がオレのそばに寄って来た。  ——なんだ——  と思う間もなく腕を取られ、黒い手帳を見せられた。  ——や、や、警察手帳——  逃げようとしたがもう遅い。  パトカーに乗せられ、そのまま警察へ連行。どう考えてみてもわからない。  ——どうしてオレのアパートがわかったんだ——  どこにも手ぬかりがなかったはずなのに……。オレは留置場であれこれと、思案をめぐらしたが、どうしてもわからない。  ——なんで見つかったのか——  なにもかも白状させられたあとで刑事に尋ねてみた。 「どうしてアパートがわかったんですか」  刑事がニヤニヤ笑いながら答えたんだ。 「簡単なことだよ」  驚いたなあ。本当かなあ。とても信じられないんだよなあ。 「猫が話したんだ。あそこの奥さんは猫語がすっかりわかるらしいぜ」 初出一覧 影酒場 サントリー・クォータリー 昭和59年17号 触媒人間 小説推理 昭和57年8月号 貧乏ゆすり 月刊パレス 昭和58年9・10月号 天和の代償 近代麻雀 昭和48年7月号 社長室のゴルフ 月刊パレス 昭和58年5・6月号 マイ・バレンタイン・デー 小説ジュニア 昭和52年2月号 凧 北海道新聞他 昭和57年1月10日 破られた約束 小説推理 昭和54年8月号 地震恐怖症 月刊パレス 昭和58年1・2月号 遠い夜 ショートショートランド 昭和58年1月号 真夜中のインベーダ 月刊パレス 昭和56年9・10月号 不運なシャツ 月刊パレス 昭和57年5・6月号 ネズミ酒 小説推理 昭和57年4月号 一年生のために ショートショートランド 昭和57年春号 あやしい鏡 コバルト 昭和57年創刊号 未完成交情曲 月刊パレス 昭和53年7・8月号 眼美人 コバルト 昭和58年春号 新築祝い 月刊パレス 昭和58年3・4月号 幽霊をつかまえろ ベルーフ 昭和57年9・10月号 夏の夜ばなし 月刊パレス 昭和57年7・8月号 美しいお妃様の冒険 �海�臨時増刊号 昭和57年12月 風邪とサラリーマン 月刊パレス 昭和57年11・12月号 善意 東京新聞他 昭和57年2月21日 とてもいい気持ち 月刊パレス 昭和58年11・12月号 海の眼 問題小説 昭和58年4月号 目黒のサンマ 月刊パレス 昭和58年7・8月号 形見 別冊小説現代 昭和57年初夏号 家族の風景 東京新聞他 昭和57年4月18日 レンズの中の男 リカーショップ 昭和59年7月号 無料コーヒー 月刊パレス 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